コリントにて01 パウロ 使徒の働き18:1-4

『18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。
18:2 そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。パウロは二人のところに行き、
18:3 自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。 使徒の働き18:1-4新改訳2017』

パウロは、アテネからコリントに移動しました。

コリントは、アテネから約80キロ西に位置する町で、わずか80キロでも、その性格は全く異なる町です。ローマ帝国内で4番目に大きな町で、当時の人口は、約20万人から50万人と推定されます(アテネの約20倍)。ローマから追放されたユダヤ人も多くいたと考えられます。

歴史を見ると、紀元前(B.C.)146年にローマ軍はコリントを破壊しました。しかし、戦略的に重要な町なので、そのまま滅びることはなく、紀元前(B.C.)46年にジュリアス・シーザーが再建し、植民都市(コロニー)としたのです。コリントはアカヤ州の首都で、東西に2つの港を持っていました。一つは、レカイオンで、コリント湾からアドリア海に至るための港町で、もう一つのケンクレアは、エーゲ海に面した港町でした。港と港の間は約6キロあり、台車で船を運ぶこともありました。19世紀の終わりに、トルコ政府が運河をつくることになりました。東西移動のための要衝の地で、アジアとヨーロッパをつなぐ役割を果たしていました。

コリントは、商業都市でもあり、堕落した町でした。その状況から「korinthiazomai」(corinthianize)という動詞が生まれました(前5世紀)

また、偶像礼拝の町であり、ギリシア神話の女神アフロディーテの神殿が、アクロコリントス(570メートル)の山頂に建っていました。この女神は、愛・美・性交の神で、ローマ神話のビーナスに相当します。その神殿には、1000人の神殿娼婦がいたと伝えられています。「corinthian girl」は、神殿娼婦のことを意味しています。次の聖句は、この内容のことを取り上げて記されました。

『6:15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。 1コリント6:15~17新改訳2017』

コリントの遺跡から発掘されている偶像の宮は、「メルカルト(水夫の神)」「アポロ(音楽と詩の神)」「アスクレーピオス(アポロの息子、医療の神)」などです。

パウロは、コリントで新しい同労者と出会いました。

パウロは、自給伝道をする必要がありました。その理由は、「支援者がいない」という事情です。生活のための糧を稼がなければならなかったのです。当時のラビたちは、職業を持ちながらヘブル語聖書を教えるのが普通でした。そして、当時のラビは生徒から謝礼を受け取ってはならないとされていたのです。

パウロは、天幕職人でしたから、その組合(ギルド)を探したと考えられます。

そこで、「ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラ」と出会うことになりました。

アキラは、ポントス生まれで、イエスを信じるユダヤ人です。ポントスは、小アジアにあるローマの属州で、ビテニアの東に位置していました。その妻プリスキラは、プリスカとも呼ばれます。むしろ、プリスカの方が正式な呼び名だそうです。使徒の働きを記したルカは親しい呼び名を好む傾向がありますが、パウロは正式な呼び名を好む性格だったようです。この二人がどのような経緯で信者になったかは、記録されていませんが、信者になってからある年数は経っていたと推測できます。そもそも、彼らはローマ在住でしたが、クラウデオ帝(紀元(A.D.)在位41~54年)の勅令によってローマから退去させられて、パウロが来た少し前に、コリントに来ていたのです。

クラウデオ帝によるローマからのユダヤ人の追放は、歴史家スエトニウス(69年~140年頃)によれば、紀元(A.D.)49年~50年に勅令が出されたなっています。つまり、ローマ市民ではないユダヤ人たちは、ローマから追放されたのです。その理由は、「クレスタスという首謀者の煽動で、ローマのユダヤ人たちは度重なる騒動を起していた」と言うものです。

スエトニウスは、勅令が出されてから20年後に誕生していて、状況の認識に誤解が生じています。パウロたちが、キリストを伝えたことで、ユダヤ人共同体が揺れ動いたのは確かですが、彼は、キリストの名前を誤って記録し、また、キリストが実際の首謀者だと思っていたのです。

アキラとプリスキラは、同業者であるパウロに好意を示し家に住まわせました。当時の商人の店は1階にあり、住居は2階にありました。そして、一緒に天幕の製造、修理の仕事をしたのです。天幕作りは、ギリシア語で「スケイノポイオス」ですが、正確には、天幕職人と言うよりは、革職人のようです。パウロとアキラとプリスカの友情は、生涯続くものとなりました。

ルカは、2節で夫のアキラを先に紹介しています。彼らの名前は、ここ以外に5回出て来ますが、4回までプリスカが先に出て来ます(使18:18、26、ロマ16:3、2テモ4:19。例外は1コリ16:19)。プリスカは、高貴な出の婦人であったのかもしれないし、なんらかの理由で夫よりも重要だと思われたと推測されます。

コリントでも、パウロはユダヤ人伝道を優先させました。安息日ごとに会堂(シナゴーグ)で論じ、ユダヤ人とギリシア人(神を恐れる異邦人)を説得しようとしました。その中心は、イエスは、約束のメシアであるというメッセージでした。

パウロは、不安と恐れを覚えていました。
「マケドニア州での伝道の経験」「コリントの町は堕落しているとの悪評」「同労者がいないこと」「生活の糧をどうするか」パウロは、さまざまな弱さを感じていましたが、その中に働く神の摂理があったのです。

【主】は、アキラとプリスカと出会わせ、パウロは生涯の友人とし、弱っているパウロを励ましました。クラウデオ帝の勅令受け、ローマから追放された彼らも、弱さを覚えていたでしょう。しかし、その勅令がなければ、この出会いはなかったのです。そこに、【主】の御手を見ます。信仰者は、すべてのことについて創造主である神【主】を賛美することができるのです。

パウロは、自給伝道を継続するために、勤勉に働くことを求め、その結果、仕事と2人の友人を得ることになりました。その2人の友人も、勤勉な人たちでした。

本来、ユダヤ的信仰は、職業を尊ぶものです。【主】は、勤勉な人を祝福されます。

パウロは手紙(書簡)の中で、3度彼らの名を上げています(ロマ16:3、1コリ16:19、2テモ4:19)。

このコリントの町にも教会が誕生します。でも、コリント教会には、多くの問題がありました。パウロは、この教会に3つの手紙(書簡)を書きました(残っているのは2つ)。その内容と適用は、極めて現代的です。

パウロはそれらの手紙(書簡)によって、位置的聖化を、実際的聖化に高めようとしました(1コリ1:1~3)。コリントの信者は、数々の問題を抱えながらも、「聖徒」と呼ばれています。

「罪の増すところには、恵みも増す。」がここにあらわれたのです。
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