コリントにて03 パウロ 使徒の働き18:12-18
『18:12 ところが、ガリオがアカイアの地方総督であったとき、ユダヤ人たちは一斉にパウロに反抗して立ち上がり、彼を法廷に引いて行って、
18:13 「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています」と言った。
18:14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、
18:15 ことばや名称やあなたがたの律法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」
18:16 そうして彼らを法廷から追い出した。
18:17 そこで皆は会堂司ソステネを捕らえ、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。
18:18 パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った。 使徒の働き18:12-18新改訳2017』
不信仰なユダヤ人たちは地方総督にパウロを訴えます。
地方総督ガリオの家系について、大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)という修辞学者、著述家がいて、3人の息子(ルキウス・アンナエウス・ノバトゥス)がいました。修辞学者のルキウス・ユリウス・ガリオの養子になり、後にルキウス・ユリウス・アンナエウス・ガリオと呼ばれたのが、使徒の働き18:12に登場するこのガリオです。ストア派の哲学者で、ネロの家庭教師となり、ローマでは大きな影響力を持っていたようです。このガリオは、大セネカの長男であり、小セネカの兄です。①温厚な好人物としての評価が高かく、②弟の小セネカは、「ガリオほど魅力的な人物は他にいない」、「兄のガリオを全身全霊で愛したとしても、まだ足りないほどである」などと、兄ガリオを絶賛しています。
この時、ガリオは、アカヤの地方総督でした。地方総督とは、ローマから派遣された地方行政官で、彼の任期は、紀元(A.D.)51~52年と言われています(病気のために途中退職)。この裁判が行われたのは、恐らく紀元(A.D.)51年の終わり頃だと推測されます。これは、パウロの活動の絶対年代を決めるための情報の一つです。ガリオと小セネカは、紀元(A.D.)65年にネロによって殺されました。
不信仰なユダヤ人たちは、パウロ追求の手を緩めませんでした。使徒の働き18:6では、パウロに反抗して、暴言を吐き、ここでは、パウロを法廷に引き出したのです。新任の地方総督が来たので、勝訴する可能性があると考えたかもしれません。
法廷と訳された言葉は、「審判(さばき)の座」(文語訳)、「ベイマ(bema)」と表記されています。これは、アゴラ(市場)の中央につくられた一段高い場所で、地方総督ガリオはここから判決を出すのです。裁判の様子を傍聴することが、一般人にも許されていました。
背景を整理すると、ユダヤ教は、ローマの公認宗教でした。ユダヤ人がユダヤ人を改宗させることは許されていたのです。しかし、ユダヤ人でないローマ市民に伝道することは違法でした。
不信仰なユダヤ人たちの訴えの内容は、「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています」でした。つまり、ローマ市民に、非公認の宗教を伝えているということでした。
ピリピ(使16:20~21)とテサロニケ(使17:6~7)でも、同じ訴えがありました。
被告パウロは、ベイマに立ち、そこに置かれた腰の高さほどの円柱に手を置いて宣誓し、その次に、証言を開始するはずが、パウロが話し出す前に、ガリオがさえぎりました。
裁判官ガリオは、訴えている者たちへの不快感と軽蔑を口と態度で示します。「ユダヤ人の諸君」と、パウロを訴えているユダヤ人たちに呼びかける。そして、この問題が刑事事件なら、自分は取り上げるが、この問題は、ユダヤ教内部の教理に関する争いであり、申立て自体が不適法なので、門前払いに処する(却下)。と、政教分離を貫くカタチで収めたのです。
ユダヤ教のラビの風貌をしてるパウロを見れば、すぐに分かるので、「ユダヤ人同士で始末をつけるがよい」という結論に至ったのです。
ここには、ガリオの反ユダヤ的姿勢が見られます。総督の温厚な裁定に驚いたユダヤ人たちは、なおも食い下がったことでしょう。この時のガリオは、退廷を命じるのではなく、彼らを力ずくで追い出したのです。
このガリオの言葉が引き金となって、群衆の反ユダヤ感情が噴出し不信仰なユダヤ人たちは、ユダヤ人の指導者に襲いかかりました。「ユダヤ人同士の争いにローマ人を巻き込むな」という感情があったのでしょう。会堂管理者ソステネ(クリスポの後任)が標的となり、群衆は、ベイマの前でソステネを打ちたたいたのです。
これに、ガリオは、無関心でした。小さな暴力は、総督が関わる案件ではないので、宗教に無関心ということではなく、管轄外の案件には無関心という意味なのです。
18節でパウロは、コリントを去ります。
紀元(A.D.)52年の秋、パウロはアンテオケ教会に帰ろうとしました。その理由として、コリントの状況が落ち着いてきたことや他の地区での伝道の時期が来たと感じたからでしょう。
そして、ケンクレアの港から出発したのです。プリスキラとアクラも同行したと記されています。シラスとテモテは、アカヤに留まったと思われます。
「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った。」とあるのは、「ナジル人の誓願(民6:1~21)」が背景にあります。「誓願の期間、ぶどう酒を控え、頭にかみそりを当てない。」「誓願の期間が終わると、神殿で頭を剃り、その髪をいけにえをととも燃やす。」
パウロの誓願は、献身の誓願か、感謝(安全が守られた)の誓願だと考えられます。パウロが採用した方法は、ディアスポラのユダヤ人の習慣と思われます(エルサレムに上るための時間的、金銭的余裕のない場合の方法)。
律法からの自由とは、守る自由と守らない自由を含みます。今の時代のメシアニックジューも同様です。本人の意志によって選択されていることを理解する必要があり、個々に配慮をするゆとりを持ちたいものです。
パウロは、東からアジアに入ることは禁じられたが、西から入ることは許されていたので、そのルートを選択したのです。
やがて、信仰者の私たちも、ベイマの前に立つのです。ベイマという言葉は、「マタ27:19」「2コリ5:10」の2箇所に出て来ます。
信者の疑問は、「「福音の三要素」は信じたけれど、救われているかどうか確信がない。それは、死後に明らかになるのではないか?」というものです。
しかし、原則はキリストを信じた人は、すべて救われます。また、キリストの御座の裁きは、「有罪か無罪ではなく」、「信者の褒賞」を決めるための裁きなのです。
ガリオによる裁判の結果は、パウロが伝える福音が、ユダヤ教の一部であると認定されています。つまり、キリスト教は公認宗教の一部であるという判断です。
総督による判決は、ローマ帝国内のすべての総督の判断に影響を与えました。これが、長官(ピリピ)や役人(テサロニケ)の判決とは比較にならないほど重い「判例」となったのです。
パウロは、この7年後にカイザルに上訴する(使徒の働き25:11)ことになります。
これ以降、約13年間にわたり伝道の自由が与えられました。紀元(A.D.)64年、ローマ皇帝ネロはローマの大火をクリスチャンの仕業とし、それ以降、キリスト教への迫害が始まりました。
ソステネは、会堂管理者クリスポが、パウロの伝道によって救われ、それにより会堂を追われ、その後任になりました。彼は、ベイマの前で野次馬たちによって打ちたたかれ、大変な目に遭ったのです。その後どうなったのかは、1コリ1:1に記されています。ソステネは、パウロの書記になっています。彼は、苦難を通してキリストに出会ったのです。
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