世の中の背景が露見する時代 横山源之助
『資本ある者は、あらゆる権利利益をおさめ、社会の表面に立ち、わが物顔にこの世のなかに飛びまはりをるにあらざるや。 法律はとくに彼らのために保護を与へ、 政治は彼らの利益のために行なはる。 横山源之助『内地雑居後之日本——他一篇』(岩波書店)』
これは、今日の世界の状況を予見してのフレーズではないかと思えるものです。
これに沿って、世の中が動いているように見えるのは、私だけではないと思います。
資本を持つ個人あるいは集団は、株式を持つ事で、支配権を得ます。
余剰金があれば、配当の増額を迫り、権利を最大化してきました。
また、利益を最大化させるように、正社員を削減し、派遣労働やパートタイマーにシフトさせる動きが活発化しています。
日本の少子高齢化に至っては、外国人実習生などの労働力をさかんに導入しています。
日本人は、どこで何をしているのか?
観光地に行っても、目立つのは外国人の観光客(インバウンド)で、景勝地の雰囲気もガラリと変わっていると聞きます。
行政にも、立法機関にも、資本家のために働く人材を集めているように見えます。
日本人の選挙で選ばれている政治家の方々が、日本人が困るような方向性の政策をドンドン進めていく光景は、見ていても、吐き気がする人が多いのではないでしょうか?
日本は、三権分立制度で、司法、立法、行政とありますね。
どこにも、さまざまなアプローチがあるようで、本来の正常な機能を停止しているように見えます。
それらのあらゆる珍現象の根元に、このフレーズの指摘があるように感じています。
いつも不思議に思うのが、資本家は、お金をかき集めて、使いきれないほどの資金をどうするのか?
まあ、資本家同士の奪い合いも想像できますし、それ自体がゲーム化しているのかも知れません。
人間が、人間らしく生きられるような、もっと、穏やかな世の中を望みます。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、1871年4月10日(明治4年2月21日) – 1915年(大正4年)6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現・魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。
経歴
魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛[1]の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業[1])に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現・中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。この時期に二葉亭四迷や内田魯庵、幸田露伴らと知り合う。特に二葉亭四迷からは強い影響を受け、ルポライターを目指すきっかけとなった。
1894年、毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に記者として入社。代議士島田三郎,実業家佐久間貞一の援助によって[2][3][1]、下層社会のルポルタージュを中心に活動をするようになる。この頃、下層社会の女性の救済を訴える立場から、晩年の樋口一葉のもとを何度か訪ね、親交を結んだ。
1896年から翌年にかけて、桐生足利、郷里魚津、阪神地方の調査を実施。帰京後、労働組合期成会に関与して、高野房太郎、片山潜を知る。1899年、『日本之下層社会』、『内地雑居後之日本』を相次いで刊行。同年、過労に倒れて帰郷、毎日新聞社を退社する。
1900年、「職工事情」調査に加わった後、再び上京。大井憲太郎と労働者の海外出稼を計画するが失敗。以後、『海外活動之日本人』、『怪物伝』、『南米渡航案内』、『明治富豪史』、『凡人非凡人』をそれぞれ刊行。1912年にはブラジルに渡航し、『南米ブラジル』を執筆した。
1915年6月3日に、東京市小石川区白山前町(現・文京区白山)にて永眠。享年45。






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