本当の謙遜とは? 箴言22:4
『へりくだりと、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのち。(箴言22:4新改訳2017)』
信仰者は清貧が良いと言われる事があります。「富める人が天国に入るのは難しい」という聖句の影響かも知れません。
しかし、パウロは次のように表現しています。
『私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12新改訳2017)』
冒頭の聖句では、「富」と「誉れ」と「いのち」が、報いとしてあげられています。
「富」は、物質的な祝福であり、肉体的な祝福です。これも、地上生活には必要です。富は金銭だけではなく人に恵まれることも大切です。
「誉れ」は、人や紙に受容され、愛を共有し、適切に誉める誉められるという大切な交流です。
「いのち」は、永遠と繋がる信仰を心に保ち、エネルギーを得ることです。愛や喜び、平和により穏やかないのちを感じることは、一番大切な祝福を実感できます。
また、前提条件が提示されています。
それは、「へりくだり」と、「【主】を恐れること」だと記されています。
「へりくだり」をどのように理解するかによって、得るものも変わります。
日本語辞書には、このような記載があります。
『相手をうやまう気持で、自分を卑下すること。謙遜。(精選版 日本国語大辞典)』
この説明は、へりくだることの本当の意味合いを誤解してしまいそうだと思います。卑下という表現は、傲慢の裏返しであり、相手との不必要なスキマをつくってしまう要素なので要注意だと、私は考えています。
私が考える本当の謙遜は、「等身大の自分を自己受容して、相手を敬うこと」だと理解しています。
報いにたどり着くためのもう一つの条件は、「【主】を恐れること」です。
これは、創造主である神とどのように向き合うかを問われています。
人間は、自分なりに一生懸命がんばって仕事をして生きています。
それは、当たり前のようですばらしい事なのですが、それを我力だけで成し遂げるためには限界があります。
いのちは、創造主である神から授かったものであるし、その他にも才能など授かっているものを認めると考え方も変わるのではないでしょうか?
自分の所有だと固執していたものが、授かり物であったり、借り物であったりという事実を整理することも大切です。
つまり、創造主である神の主権を認めて、その前にへりくだり、敬い、愛の贈り物を感謝して受け取る態度こそ、「【主】を恐れること」の本質なのですね。
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