門から家に入る時の心得 マタイ6:10 ルカ22:42
『6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。 マタイ6:10新改訳2017』
『22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」 ルカ22:42新改訳2017』
信仰者の葛藤は、創造主である神【主】の御心がわからない時に大きくなります。使徒の働きの時代は、移行期でもあるので、特別な【主】からのアプローチ(幻による示し)があったと考えた方が自然でしょう。
ペンテコステ以降の信仰者は、聖霊(第三位格)の内住を受けていますから、それによる導きもあります。また、聖書が記されていますから、そこに記されている使徒たちの教えから学ぶことができるのです。聖書全体から考えると、一義的ではなくても、旧約の預言から、【主】の御心を窺うこともできます。
次に、動機を吟味するステップがあります。それは、信仰者の失敗は、「利己的な動機が要因」であることが多いからです。傲慢になり、調子に乗って、自分の手柄を第一にしたりして、御心を置き去りにしてしまうのです。
冒頭の聖句のように、清い動機で、真摯に御心を探る信仰者の姿勢が求められているのです。
信仰者は、知識として御心を知ったとしても、自分の感情とのギャップに揺らぐものです。
この知識と感情のバランスが取れたポイントで、人の意志は働くという原則があります。
これを生かすために知恵が必要です。
究極的には、創造主である神【主】の恵みに依り頼む事です。
【主】の御心は、時には、肉体には耐えられない事も多々あります。
使徒の働きに、記されている人たちの人生が、まさにそうでした。
彼らは、【主】の御心を行い、使命を果たすことで、有限の肉体の世界から解放されて、永遠の幸福へと移されることになったのです。
【主】の御心を「この世での繁栄だ」と考えると、あちらこちらに歪みが出てきます。
パウロは、英才教育を受けて迫害者から、いのちをかけた宣教者になりました。彼は、テントメーカーとして、自給伝道を基本としていました。
それは、21世紀の今でも、大切な要素なのかも知れません。
パウロの暮らしぶりは、豪邸暮らしのお金持ちとは記されていません。生計を維持するために、必要な供給が注がれていたと推察する他はありません。
信仰者が人生の岐路に立たされたときの原則は、【主】の恵みにより頼む以外に方法はないようです。
大きな決断をする時には、恐怖を感じて震えるものです。「私なんて」とか、「なんで、私?」などと考えるものです。
しかし、先達の経験を聞くと「献身してから恵みがついてくる」と言うのです。
それは、「信仰者になってから、【主】の恵みが働く」という原則に沿ったものなのでしょう。
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