ヴィクトール・フランクルからの問いかけ04
『つまるところ人間とは何であるのか。私たちは、おそらくこれまでのあらゆる世代以上に、人間を知っています。私たちは、強制収容所で人間を知りました。強制収容所では、あらゆる非本質的なものが人間から溶け去りました。人間が持つすべてのもの――金、権力、名声、幸福———— が抜け落ちたところ、人間が「持つ」ことができず「ある」ことしかできないものだけが残ったところ、そこで残ったものは、人間自身だったのです。苦痛に燃やされ苦悩に焼かれて、人間は人間の中にある本質的なもの、人間的なものへと溶かし込まれたのです。
つまるところ人間とは何であるのか。もう一度そう問いましょう。人間とは、自分がどのような存在であるかをつねに決断する存在者です。動物のレベルにまで落ち込む可能性と同じほど、 聖人的な生にまで高揚する可能性をも秘めた存在者です。人間は、なにしろガス室を発明した存在者です。しかし同時に、まさにそのガス室へと、毅然とした態度で、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら歩み入った存在者でもあるのです。
これが要するに人間なのです。いまや、最初に提出した「私たちが偲ぶ人間とは何であるか」 という問いに対する答えも明らかでしょう。「人間は葦である」とバスカルは言いました。「しかし考える葦である」、と。この思索、この意識、この責任存在こそ、人間の尊厳の本質、個々の人間の尊厳の本質をなしています。そして、この尊厳を踏みにじるか、それともそれを保つかは、つねにもっぱら個々の人間だけにかかっているのです。一方はその人個人の功績となり、他方はその人個人の罪責となります。そもそも、罪責には個人的な罪責しかありません。集団的罪責ということは考えられないでしょう。もちろん、「何もせず」多くのことを怠った人、自分のことを心配し、大切な人の身を気づかって、多くのことを怠った人、そのような人にもその人個人の罪責があります。しかしながら、そのような人を「病者だ」と非難しようとする人は、非難する前に、同じような状況にあって自ら英雄であったことをわが身で立証したのでなければならないでしょう。
やはり、他の人たちをあまり激しく非難しない方がよいのではないでしょうか。ポール・ヴァレリはかつて次のように言いました。「断罪し告発するなら、根底にはまだ到達していない (Si nous jugeons et accusons, le fond n’est pas atteint)」非難し告発する限り、私たちはまだ根底には達していないのです。ですから、死せる人々のことを偲ぶだけではなく、生きている人々を赦しましょう。あらゆる死を乗り越えて、死せる人々に手を差し伸べるのと同じように、あらゆる憎しみを乗り越えて、生きている人々にも手を差し伸べたいと思います。そして、死者に名誉あれ、 という言葉に、さらにこう付け加えたいと思います善意あるすべての生者に平和あれ。p158~159』
「強制収容所では、あらゆる非本質的なものが人間から溶け去りました。人間が持つすべてのもの――金、権力、名声、幸福———— が抜け落ちたところ、人間が「持つ」ことができず「ある」ことしかできないものだけが残ったところ、そこで残ったものは、人間自身だった」これは、フランクルが強制収容所の中で、味わった事の考察です。すべての所有を奪われた人間がどうなったか、という究極的な観察です。それは、「ある」という存在であり、「人間自身」が残されていたというのです。
あえて、「人間とは何であるのか」と問いかけています。「人間とは、自分がどのような存在であるかをつねに決断する存在者」とまとめています。つねに決断するというのは、意識下ではハードな事だと推察しますが、実際には、無意識下で行われているものも多くあるのではないでしょうか?でも、結果的に自ら決断しているのです。
「ガス室へと、毅然とした態度で、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら歩み入った存在者でもある」これは、実に生々しい証言です。そこに、入ることが肉体的死であると理解しながら、自ら決断し、歩を進めていたのです。私がその場にいたのなら、どのような悪態をついていたでしょう。
「この思索、この意識、この責任存在こそ、人間の尊厳の本質、個々の人間の尊厳の本質をなしています」それぞれに、考えていることには開きがありますが、個々の責任存在によって、動かされているのが事実だと記しています。それが、人間の尊厳の本質であると言うのです。
「この尊厳を踏みにじるか、それともそれを保つかは、つねにもっぱら個々の人間だけにかかっている」とあり、やはり、責任存在をどのように用いていくのか? その問いに個々の人間が応答する事が求められているのです。
歴史的に繰り返されてきた紛争、または、民族浄化というタイトルがつけられる迫害や虐殺は、煽動者が集団を煽り自らの手を汚さずに目的を遂げてきた一面があります。それは、実に理不尽で残虐な行為です。それでも、その集団としての罪責感など無いようです。フランクルは「罪責には個人的な罪責しかありません」と続けます。自らも被害者ならば、怒りを持った感情の吐露があるのかと思いましたが、これを記しているときには、冷静すぎるほど冷静に書いています。
そして、「他の人たちをあまり激しく非難しない方がよい」と述べています。合理的に考えれば、避難は復讐を呼ぶのですから、そちらの道へは進まない方が懸命なのです。
むしろ、「死せる人々のことを偲ぶだけではなく、生きている人々を赦しましょう」とまで、記しています。さらに、「死せる人々に手を差し伸べるのと同じように、あらゆる憎しみを乗り越えて、生きている人々にも手を差し伸べたい」という、超前向きな表現までもしているのです。
紛争の解決、問題の決着、そして、課題の切り分け、さらに、自分自身の課題に向き合うことを順序立てて意識をしていきたいと考えさせられます。
そして、「善意あるすべての生者に平和あれ」という言葉で締めくくっています。
「平和」とは、実現されるには、平和な心を持つ人が増えなければ実現しないのです。まず、自分が平和な人として存在する所から、平和がはじまるのでしょうね。
参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩する人間 V·E· フランクル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』
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