耳を傾けた武将 豊臣秀吉
『ひそかにわが身の目付に頼みおき、時々異見を承わり、わが身の善悪を聞きて、万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり。 豊臣秀吉『男の決断・行動学』(柏書房)』
織田信長に仕えていた頃、冬の寒い日、信長の草履をフトコロに入れて温めて、信長に気に入られたという逸話の持ち主です。
信長は、後の秀吉(日吉丸→木下藤吉郎)を「猿」と呼んで、可愛がっていたと言う話しも良く聞きます。
秀吉は、父親は百姓をしつつ、有事には足軽として活動していたようです。
つまり、百姓の家で、育てられました。
後に、武士となり、関白を名乗るまでになりました。
でも、そのルーツを考えると、非常に希有な存在だったようです。
真偽不明のものも合わせて、多くの逸話が残っています。
その不思議な人生の背景には、冒頭のフレーズのようなポリシーがあったのでしょう。
信長を見出し、天性の観察眼で、そのフトコロに入り込み、本能寺で信長が殺されると、後の体制の主導権を獲るまで上り詰めたのです。
大阪には、秀吉が築城した大阪城が、今もそびえ立っています。
徳川の世になっても、大阪人の心には、豊臣秀吉が生きていると言うのです。
大阪で、徳川の自慢をしたり、豊臣秀吉の悪口を言おうものなら、袋だたきに遭う可能性もあるから、気を付けるように忠告された事があります。
このフレーズからの教訓は、「異見を承わり」とあることです。これは、自分と異なる意見でも、聞くという姿勢を示唆しています。
また、「万事に心を付ける」とは、多方面に心を配るという、秀吉ならではの配慮だったように感じます。
世紀の逸材を発掘するのなら、根気よく、このフレーズの教訓を生かすのもありかも知れません。
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)は、戦国時代 – 安土桃山時代の日本の武将、戦国大名、公卿。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人[3][4]。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた[5]。官位は従一位、関白、太政大臣、贈正一位。
概要
幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、正親町天皇から豊臣の姓を賜った。朝廷の権威を背景とした惣無事の名のもと各地の戦国大名に臣従を要求し、北条氏を降した小田原征伐により天下統一を果たした。統一後に豊臣政権は太閤検地・刀狩令・石高制などの全国的な政策を推し進め、全国の蔵入地や鉱山収入で巨大な財力を手にした。豊臣政権は聚楽第・方広寺(京の大仏)・伏見城などの大規模建築の造営を行ったほか、秀吉は茶の湯・美術工芸・芸能を愛好し、その発展を促した。秀吉の治世下で発展した文化は桃山文化と呼ばれる。





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