聖霊によるバプテスマについて 使徒の働き10:44-48

『10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。
10:46 彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。
10:47 「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」
10:48 ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。 使徒の働き10:44-48新改訳2017』

ヨハネ伝9章に、生まれつきの盲人に対するイエスのアプローチについて顛末が記されています。その原因は「誰かの罪」によるのでは無く「この人に神のわざが現れるため(9:3)」とあります。

これが、創造主である神【主】の大原則のようです。

使徒の働き3章には、ペテロとヨハネが、「美しの門」と呼ばれる宮の門にいた「生まれつき足の不自由な人」に対するアプローチにも、それを見ることができます。その結果、「神のわざ」が示され、多くの人がその事実を目撃したのです。

一方、使徒の働き8章に出てくる魔術師シモンは、その不思議なチカラを自分の金儲けのネタとして買おうとしました。この動機が、神の原則から外れるという認識は多くの人と共有できると考えます。

ここに出てくる「聖霊が下った」や「聖霊の賜物が注がれた」という内容をどの様に受け取るのかに、信仰者として、また人間としての動機が探られていると思います。

「聖霊を受けた」ことにより、「彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いた」と明らかな変容が見られます。

この結果は、「神のわざ」が示され、創造主である神【主】との一体化を見ることができます。この時の聖霊体験は、【主】の原則に沿ったものだったのですね。

この中で、「聖霊の賜物が注がれた」事と、その後に「水でバプテスマを受け」たことを考えると、救いには、【主】の贖い(福音の三要素)を受け入れる信仰により、【主】との一体化が必須事項だと考えることができます。これは、信仰者には「聖霊の内住」があることを示唆しています。

「水でバプテスマ」は、信仰を表明するためのセレモニー的な要素があるのです。

「聖霊の賜物が注がれ」る事は、今の時代でも否定できません。しかし、その原則は「神のわざ」が示されるという方向性です。それが、原則に沿っていて、【主】の御心であるならば、【主】の御名による癒やしが与えられる事もあります。

熱心な信仰者に見えている人が、断食や修行をしたところで、そうはならない事もあります。

一方、まやかしの癒やしの集会も人気を集めています。その場で、明らかな変化が見られるからでしょうか?

人間には、「しるしと不思議」というキーワードが響くようです。

でも、その本質を観察していく必要があります。

使徒の働きが記されている時代は、特に、新契約時代への移行期ですから、使徒が経験した「異言」などは再現性はないと思われます。むしろ、使徒が教えた事から学ぶ必要があるのですね。

信仰者の理想は、内住の聖霊が満ちあふれる歩みです。これは、不思議な現象よりも大切だと考えています。

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