ヴィクトール・フランクルからの問いかけ06
『第一節 人間中心主義
上述のように、ヒューマニズムの危機が始まるのは、人間が人間にとって一切になるときです。それに対して、人間学主義が始まるのは、人間が、たんに考察の前面に立つだけではなく、価値評価の中心に立つとき、すべての価値評価の尺度になるときです。では、このような傾向はどこから来るのでしょうか。
フロイトがかつて指摘したように、人間の自己意識――フロイトが言うにはナルシシズム―― は、人々が抱く世界像のコペルニクス的転回、つまり天動説的世界像から地動説的世界像への転回によって動揺しました。人類は当時、一種の地球的規模の劣等感に襲われ、その劣等感が――まさしくアドラーの理論の意味での補償を必要としたように思われるのです。つまり、人間は、より高い価値の意識に至ろうと試みざるをえなかったのです。そうです、人間は当時、最高価値を強奪することをはじめたのです。つまり、補償するだけではなく、「過剰補償すること」をはじめたのです。もしそうでなければ、地球が世界の中心にないことを人間が知ったまさにその瞬間に、人間が神の位置を占めようとしたということをどう解釈できるでしょうか。p171』
「ヒューマニズムの危機が始まるのは、人間が人間にとって一切になるとき」とはじめ、「人間が、たんに考察の前面に立つだけではなく、価値評価の中心に立つとき、すべての価値評価の尺度になるとき」と続けます。
人間は、本来の立ち位置を離れることで、不安定になります。
現実的に、人間の黄金バランスを崩したいと願う存在に、いとも簡単に、足元をすくわれてしまうのです。
「人間の自己意識――フロイトが言うにはナルシシズム――」と言う表現があります。これは、自己意識のどこを見るのかによっても変わるのではないかと私は考えています。
しかし、人間は置かれた環境の中で、もがきながら、模索するほか術がなかったのです。
「人間は、より高い価値の意識に至ろうと試みざるをえなかった」とあるようにです。
それまで、土台だと考えていた考え方を置き換えられることにより、また、その価値観が変えられたらどうしようかと考えるのは、ある意味、自然な流れでしょう。
「「過剰補償すること」をはじめた」というのは、いささか派手な表現に感じます。
これは、ギリシャ哲学などが解決策を模索するのに似ているように見えるのです。
「地球が世界の中心にないことを人間が知ったまさにその瞬間に、人間が神の位置を占めようとしたということ」
宇宙の法則は、人間には解明できていないのが現実です。
それを知るには、実際に造られた存在に問うしかないのです。それは、今は不可能です。
創造主である神【主】に、やがて、会うときが到来するそのタイミングで確かめるのです。
しかし、その時には、問うまでもなく、わかることなのかも知れませんね。
あくまでも、人間は被造物という立場で、謙虚に生かされたいと私は考えています。
参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩する人間 V·E· フランクル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』
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