「解体新書」杉田玄白 「ターヘル・アナトミア」
杉田玄白は、「解体新書」を著した江戸時代のお医者さんとして有名です。
先人が、積み重ねた人体解剖を記録し、出版するという領域は、なかなか常人では到達できない特異な領域のように感じます。
それは、江戸時代の罪人を処刑後の遺体解剖という道筋がありました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日 – 1519年5月2日)は、杉田より約250年前に、解剖などを経験しています。
時代を変えて、多才な人が現れ、探究心旺盛な使命感に燃えた人によって、今日の医学へと繋がっているのでしょう。
杉田玄白は、同じ方向性の使命感を共有する仲間と、「ターヘル・アナトミア」を参照しながら、解剖をしつつ、解体新書を作り上げたのです。
それは、人間が持つ死への恐怖を超越する探究心や意欲に突き動かされたのでしょう。
そこには、死者に対する敬意とリスペクトも込められているように感じられます。
杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日〈1733年10月20日〉 – 文化14年4月17日〈1817年6月1日〉)は、江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催した。父は杉田甫仙、母は蓬田玄孝の娘である[1]。諱は翼たすく、字は子鳳しほう、号は鷧齋(いさい)、のちに九幸翁きゅうこうおう。玄白の口癖から、友人らは彼のことを「草葉の蔭」とあだ名していた[2]。
明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る[8]。友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上された。
『ターヘル・アナトミア』は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書の、日本における呼称。杉田玄白、前野良沢らが翻訳して出版した『解体新書』の最も重要な底本である。この呼称はラテン語での題名に由来するとみられる(後述)。
著者・訳者
ヨハン・アダム・クルムスによるドイツ語の原書 Anatomische Tabellen は1722年にダンツィヒで初版が出版され、1732年に再版された。その後ラテン語、フランス語、オランダ語に訳された。
オランダ語版である Ontleedkundige Tafelen[1][2] は、オランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten 1696年? – 1770年)の翻訳により1734年にアムステルダムで出版された。
書名について
『ターヘル・アナトミア』という書名は、杉田玄白の『蘭学事始』の中で使われている表記である。漢文で書かれている『解体新書』においては「打係縷亜那都米」と表記され「ターヘル・アナトミイ」とフリガナが付いている。『解体新書』の凡例の中で「ターヘル」が表、「アナトミイ」が解剖を意味しているとの適切な説明があるのだ。
この表記は、扉絵に書かれているラテン語題名 Tabulæ Anatomicæ (タブラェ・アナトミカェ)に由来するとみられる。原書のドイツ語題名は Anatomische Tabellen(アナトーミッシェ・タベレン)、オランダ語題名は Ontleedkundige Tafelen(オントレートクンディヘ・ターフェレン)であり、いずれも『ターヘル・アナトミア』とは大きく異なる。
先述したラテン語題名 Tabulæ Anatomicæ を直訳すれば『解剖(学)図表(複数)』という意味であり、解剖学書としてはごくありふれた名称である。したがって『ターヘル・アナトミア』を正式な書名とするのは難しく、本来なら『解体新書』に記された他の参考解剖書に倣って『クルムス解体書』のように呼ぶのが妥当であるが、杉田玄白が『蘭学事始』の中で何度も『ターヘル・アナトミア』と表記しているので一般に広まっている。日本で一般に『ターヘル・アナトミア』と言えばクルムスの解剖書のことである。
参考文献「偉人たちの挑戦 東京電機大学編 P32-45」







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