ヴィクトール・フランクルからの問いかけ07

『のためより、無のために――それが合言葉です。例えば、ラ・ロシュフーコーには、次のような定義が見られます。「完全な勇気とは、みんなが見ている前でできることを、誰も見ていないところですることにある」。また、この定義とともに、スウェーデンの新聞が発表した、道徳性についての見事な定義を挙げるべきでしょう。その定義によれば、道徳的模範として次のような男性の例が挙げられています。その男性は、盲目の物乞いの前を通りがかり、一枚の高価な硬貨を物乞いの帽子の中に投げ入れました。そして、他人に見られないように自分の帽子を脱いでお辞儀をしたのです。この身振りが意味しているのは、ここで一人の人間が、まったく無意味に思われることをしているけれども、実際のところは利益にならないことをしているにすぎないということにほかなりません。それは、あらゆる日和見主義、功利主義、実用主義から程遠いものなのです。この例は、あらゆる結果倫理学に反対する倫理学論文の正しさをそっくり請け合うものと言ってよいでしょう。(以下略)p192』

「完全な勇気とは、みんなが見ている前でできることを、誰も見ていないところですることにある」というフレーズは、私も気になり取り上げたことがあります。これには、施しの原則が含まれています。

その背景には、善意は、創造主である神【主】に献げるものという発想があるからです。

献金も祈りも施しも、人前に目立つためにするのではありません。

もちろん、チャリティーで、そのような振る舞いを率先して行うというイベントもありますから、それを否定するつもりはありません。

ただ、自己アピールのためにする人助けは、どこか空しさがあるのではないでしょうか。

フランクルは例話として「盲目の物乞いの前を通りがかり、一枚の高価な硬貨を物乞いの帽子の中に投げ入れました」という施しの場面を記しています。さらに、「他人に見られないように自分の帽子を脱いでお辞儀をした」と周囲からは、不可解な行動まで記しているのです。

これは、目が見えるもの同士がするあいさつを目が見えない人にしてもムダではないかというニュアンスを感じます。しかし、相手に敬意を示すことは、目視でなくても、伝わるものなのかも知れませんね。

「実際のところは利益にならないことをしているにすぎない」という評価がある一方、そこまでできるこの男性に、俄然興味が湧きます。

この世の中は、「タイパ」を重視する時代に突入しています。

タイパとは、「タイムパフォーマンス」の略語なのだそうです。

映画やドラマを早回し(倍速再生)で視聴する世代が増えているのです。

せわしない時代です。そして、精魂込めて作られたコンテンツは、消費されていくのです。

アナログ盤レコードをすり切れるまでくり返し聞いたあの時代からは、想像できない世の中です。

21世紀の人たちは、そんなに急いでどこに行くのでしょうか?

自分自身の状態や本当に助けが必用な人に気づけるように、自己研鑽に励みたいと考えています。

参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩する人間 V·E· フランクル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』
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