「人が癒やされる愛」について
父の所に帰ってきた弟息子がひざまずき、父が両手を肩に置くという描写です。
この父の両手の描き方が、左右で違うのです。
これを父性と母性が描かれているのではないかと考える人もいるようです。ぱっと見ても分かるくらいの差がありますから、レンブラントは何らかの意識をして描いたと想像できます。それをどう受け取るかは、受取手の特権ですね。
ここから、人が癒やされる愛について考えてみたいと思います。
人間は、父と母の間に生まれて育つのですが、どうにも愛情のバランスをとるのが難しいケースが多々ありますね。
両親も人間ですから、当然、不完全で、健全な愛を注げる部分と、健全ではない部分がでてきます。
人生の中での大きな宿題というのは、健全な愛を探し出して、心のポッカリと空いた穴を埋められるかどうかにかかっているように感じます。
この健全な父性と母性は、人生の中で触れ合う誰かから、感じ取るか、もらうのだろうと私は考えています。私自身の体験から、実親以外から、かなり補完してもらっていると感じています。
必ずしも、母性は女性からもらえるモノではないし、父性も、男性からもらえるものではないでしょうね。
母性のぬくもり、あるいは、父性のぬくもりと書いたほうが、受け取りやすいのかも知れませんね。
それと合わせて、信仰者には、創造主である神の御手が置かれていると考えると、暖かいモノに包まれている感覚になりますね。
参考文献:「暴力と人間(工藤信夫 著)p82」
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