時間の感じ方 シェイクスピア
『どうとでもなれ、どんな大嵐の日でも、時間はたつ。 シェイクスピア『マクベス』(新潮社)』
「きれいは汚い、汚いはきれい」などという不可思議な台詞が渦巻く舞台。
不穏な空気に包まれるという「?」な展開がある戯曲です。
主君を倒して王座に着いても、やがて、王子たちの復讐にあうというストーリーの中で出てくるフレーズです。
どうして、主君を倒して、その座に着きたいのか?
人間の勇敢な一面と浅はかさが浮かび上がるイメージですね。シェイクスピアの最後の作品とも言われるのが『マクベス』です。そうであれば、彼にとって集大成になるのでしょう。
このようなモデルが、ありながら、「世界中で、暴君が出現しては消え」という現象が繰り返されているのは、実に不思議に感じます。
人間は、何かに焚き付けられると、自らも周囲からも制御不能になるのでしょうか? そうであるなら、誰にでも、暴君になれる性質があるのかも知れません。
でも、自分の限界を感じたときには、冒頭のフレーズの出番なのでしょうね。
『どうとでもなれ、どんな大嵐の日でも、時間はたつ。』
腹を括ったと言えば格好良いですが、開き直りというか、自暴自棄になっているニュアンスですね。
嵐の夜、身の安全が確保できる場所にいるのであれば、嵐が過ぎ去るのを待つしか無いので、余計な心配をせず、睡眠をとったり、部屋の中でできることをしていれば良いのです。
でも、ついつい、嵐が気になってしまうモノです。
まあ、必要なら避難なども考えに入れておかないといけませんから、気になるのもわかりますけれどね。
日本でいうと、「水戸黄門」は、勧善懲悪をテーマに長く続いた時代劇ドラマです。
テンプレートがあり、悪者が好き放題に跋扈していても、水戸黄門が潜入し、印籠が登場して一件落着となるのです。同じようなくり返しでも、それを見て、自分の身の回りの理不尽さを昇華しているような役割を持っていました。
権力者の横暴とその顛末を表現できるのが戯曲などの良い所です。
自分の身の回りにもネタはゴロゴロしていると感じています。人間は、時代を経ても人間なのですね。
『マクベス』(Macbeth)は、1606年頃に成立したウィリアム・シェイクスピアによって書かれた戯曲である。勇猛果敢だが小心な一面もある将軍マクベスが妻と謀って主君を暗殺し王位に就くが、内面・外面の重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れる。実在のスコットランド王マクベス(在位1040年–1057年)をモデルにしている。
『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』と並ぶシェイクスピアの四大悲劇の1つで、その中では最も短い作品であり、一番最後に書かれたものと考えられる。(中略)
「きれいは汚い、汚いはきれい」などという不可思議な台詞が劇の展開を暗示する。(以下略)




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