確信に基づく関係性>DNA
「誰が何を言おうと、おまえはおれの子だ。そして、おまえの父親はおれだ。」
なんてセリフありますよね。
血のつながりはないけど、親子になった間柄のケースなどですね。
継母とか、継父とかは、成長過程からの変化なので、赤ちゃんの時から慣れる(当たり前)感覚が持てず、特に子の中の気持ちの折り合いが難しいのですね。だからこそ「子を思う親の気持ち」「親を思う子の気持ち」が通い合えば、本当の何物にも替え難い幸せではないでしょうか。
人の生きづらさは、関係性に確信を得られない事にもあるかも知れません。
「子なのだから、親の言う事を聞くのが当然」とか「親なのに子の気持ちをわかってくれない」なんてことから、収拾がつかずに溝が深まっていくのですが、成長による距離感の修正は必要でも、その方向性は修正できるかもしれません。
もう一つは、親の立場の難しさです。
「子の存在を最大限認めながら、行為(doing)は必要な修正を時には叱り、しつけをする必要があるからです。」
世の中の色々な物差しがあるコトを伝えていく立場なのですね。
万引きなどの犯罪は、エスカレートしていくので、愛情で埋め合わせていくしかないのですが、「だれもダメだと教えてくれなかった」という刑務所暮らしの人もいます。人生のどこかで、快不快や善悪や損得を知っていく事は大切だということですよね。
究極的なケースは、親と呼べる人が他界している場合です。それでも、創造主が、あなたの「親」であると確信が得られれば、天涯孤独だという絶望感や、疎外感からは解放されることでしょうね。
同時に、親も人間なので、あなたが向き直ろうとしても、向き直ってくれない時があります。その時には、「親替え」をお勧めします。
「婦(おんな)その乳児をわすれて己がはらの子をあわれまざることあらんや。たといかれら忘るることありとも我はなんじを忘るることなし。われ掌(たなごころ)になんじを彫刻(えりきざ)めり。(イザヤ49:15,16)」
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