ある死刑囚の感覚
刑が確定した死刑囚は、拘置所で執行までの間を過ごす。そのようなところにも、宗教者たちが、教誨師として足を運ぶシステムがある。あるいは、文通を通じて教誨を受けるということもあるようです。
死刑になるような罪を犯したと言う自覚がある人、冤罪でそこにまき混まれているであろう人などを想像することができる。
死刑になるような罪を犯したという自覚がある人が書いた手記を読んだ時、ふとイエス・キリストの十字架の両側にいた死刑囚の光景が浮かんできた。
『死刑囚だったイエスを聖書で知り、共感…』『クリスチャンの○○さんの面会、あの面会時間の時だけが私には一番、心安らかになる時…』『わからない、だが、私は主を信じたい、いえ、信じようといつもいつも努力している』『神を讃美し信仰で救われようとする私の欲望は虫がよすぎると思うが、O先生は、イエスを信じることはイエスの喜びであり、イエスに救われることはさらに大きな喜びだと言う。つまり、信じることによってわれら死刑囚の死は天国への旅立ちになると言う。…』(ある若き死刑囚の生涯 加賀乙彦著)
死刑囚に響くことばや共感性は、同じ境遇に身を置いたイエス・キリストの記述ですね。同じ立場にいるとわかれば、自分の心情から、自分なりの様々なイメージが沸いてきますね。
大切なポイントは、この世で零連潔白に生きていると考えている人にもやがて肉体的死は訪れます。致死率100%の人間も、また、死を待つという点においては、死刑囚と共通点はあるように感じています。
死刑囚である自分が、イエス・キリストを信じることによって天国に旅立つコトへの葛藤が見て取れます。これは、「罰を受けて地獄へ堕ちるという」自己罰のような感情なのでしょうね。
果たして、判決で下された刑が、被害を受けた関係者には釣り合うかどうかは難しい領域ですが、違法行為は刑をもって償うとなっているので、刑の執行をもって、終結になるのですね。
そして、その人の魂は、イエス・キリストを信じることによって、天国への旅立ちとなるのですね。
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