芸術家と技術家の共同作業 萩原朔太郎

『音楽の演奏者や、劇の俳優たちは技術家である。彼らは芸術家ではない。なぜといつて彼らは真の「創作」を持つてゐないぢやないか。 萩原朔太郎『新しき欲情』(東京創元社)』

音楽の演奏会や劇場での公演などエンターテインメントが、数多くなされています。

権利関係の塊とも言われるコンテンツは、多くの人の能力や努力の結晶と表現しても過言ではないでしょう。

この萩原朔太郎のフレーズには、ハッとさせられましたので、取り上げることにしました。

ここで言われている「芸術家」は、創作をしたアーティストを意味しています。

つまり、芸術家とは、原作のオリジナルを生み出した人を指しているのですね。

そこに、萩原朔太郎は線を引いています。

そして、表現者を技術家と区別しています。

確かに、オリジナルを加工しながら、どのように表現していくかにおいては、さらなる創作過程もないと、進んでいかないですね。

でも、それも含めて、表現技術という括り方をしているのです。

技術や技巧というのは、機械加工という生産技術とはイコールではないように思います。

ある工業高校では、「技術と精神(こころ)」という文字が校歌に歌われるほど大切にされていました。

技術は、心を伴わないと、意味が無いというニュアンスを感じます。

また、技術や技巧は、テクニックも必要ですが、そこに、感情表現をどのように加えるかという創造性もあるのです。

このフレーズに異議を唱える人もいるかも知れませんね。

演者は、演者で芸術的なワザを磨いていますので、同じセリフや同じ歌を歌っても、観客に伝わるものが違うはずです。

そもそも、芸術には絶対的な正解がありませんから、演出家やスポンサーが求める範囲と、お金を払う観客が満足する範囲を探る必要もあります。

でも、それは、興行的な計算です。

それらは、オリジナル作家の思いとは、だんだん乖離していくこともあるようです。

どのように売るかによって、興行収入も大きく変わるのですから、悩ましい話ですね。

芸術と技術の両面を楽しめるコンテンツを期待したいです。

萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 – 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人、評論家。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。

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Posted by dblacks