天来の愛 アウグスティヌス
『二つの国を作りしは二つの愛なり。地の国をつくりしは、神をさげすむほど己れ自身を愛する愛であり、天の国をつくりしは、己れ自身をさげすむほどすでに神を愛する愛なり。アウグスティヌス『神の国』(岩波書店)』
聖書の中の一番短い暗唱聖句は「神の愛なり(1ヨハネ5:16文語訳聖書)」でした。
「愛」という言葉は、表現しようとしても、人間的にはその断片だけです。
その理由は、全宇宙に満ちているのが「創造主である神【主】の愛」なのです。
冒頭のフレーズは、人間的な視点と、【主】の視点にわかれて表現されています。
一つは、「地の国」と言う視点です。
これは、「神をさげすむほど己れ自身を愛する愛」と記されるほどの自己中心的な人間のエゴとも表現できる部分です。
「天の国」については、「己れ自身をさげすむほどすでに神を愛する愛」と表現されています。
この対比表現は、人間の心情的には分かりやすいです。
「天の国をつくりしは」という流れは、いささか誤解を生むかなと考えます。
このフレーズを通して見ると、心の持ち方、信仰の持ち方次第で、自分が立っているところが、「地の国」にも「天の国」にもなるという意味合いと受けとめています。
人間には、その両面があるのですね。
そもそも、「神の国」が先にあり、「地の国」は後からできたという時系列を考えれば、「地の国」に執着してしまう人間が抱えている闇の部分を感じます。
教訓としては、どちらかを立てれば、どちらかが立たなくなるので、自分の立ち位置を考えておく必要があると言う事ですね。
信仰者の考え方は、シンプルです。
その一つ目は、肉体的には、エゴもその一部分で、有限の自分も含めて、その状態を認知して受け入れることです。そして、肉体の世界を満喫する事です。
もう一つは、創造主である神【主】に対する信仰によって、「与えられた霊的な永遠のいのち」に生きるのです。
信仰者は、肉体と霊体のハイブリッドなのです。
それには、「創造主である神【主】の愛」と「肉体的な執着する自己愛」が共存しているのです。
しかし、その両方共が、「【主】の愛」に包まれているという理解です。
この世は、心持ちで、居心地が変わる部分があるのです。
自分自身の心境の変化も観察しながら過ごせるのも、一つの醍醐味なのかも知れませんね。
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