口先だけの悲劇 箴言25:14
『25:14 贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ。 箴言25:14新改訳2017』
雲があれば、必ずしも雨が降るとは限りません。
さらに、地域的なことを考えれば、乾燥地帯の中東にとって、雨を待ち望む気持ちがベースに合ったのだろうと推察します。
気軽に、「今度、○○を送ってあげようか?」とか、「私はあの人に、○○を届けた」なんて言わないように、注意したいモノです。
この箴言は、軽はずみな、口先発言への警告です。
聖書の中には、人間を欺く、サタン(悪魔)のことが記されています。アダムとエバをはじめ、多くの人が感化され、誘惑されて、失敗しました。
人間が宿る肉体には、サタンの誘惑にのせられてしまう「罪の性質」が組み込まれ、引き継がれています。それは、植物の園エデンでアダムとエバが取り返しのつかない失敗してからです。
聖書を通じてみれば、それも織り込み済みの話とも言えるのですが、これをどのように受けとめるかを問われているのです。
一方、創造主である神【主】の愛は、不変の愛です。それは、終始一貫しています。
でも、人間の忍耐力は、その愛を疑わせるほどの量しか無いようです。
そこに、サタン(悪魔)の「つけいるスキ」があるのです。
無限の【主】と有限で寿命も限りある人間とでは、スケールを比較するのが、おかしいのかも知れません。
クリスマスやイースター(復活祭)のルーツは、約2000年前の史実です。
そして、紀元1世紀に記された聖書の新しい部分には、「私はすぐに来る」と記されています。
つまり、人間は、メシアであるイエス・キリストの再臨を約2000年待望し続けているのです。
これを「遅い」と考えると、疑いが膨らんでしまいます。
信仰者の心情としては、「マラナタ(主よ、早く来て下さい)」です。
大切なのは、いつなのかは人間には分からないけれど、「主は、主の御心の時に再臨される」という確信なのです。
「すぐ来る」という言葉の意味合いは「いつ来てもおかしくない」というニュアンスです。
むしろ、いつでも大丈夫なように備えをすることが必要なようです。
贈り物は、真心から気持ちを包んで届けたいモノですね。
それは、忠実な創造主である神【主】の愛、その姿勢を見習って、口先ではなく、実体が届くよう肝に銘じたいと考えています。
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