律法の役割について ロマ3:20 ロマ3:28
『なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(ロマ3:20新共同訳)』
『なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(ロマ3:28新共同訳)』
律法は、それを守らないことが違法であるというものさしの役割です。
誰のための律法なのか? という視点も大切です。
イスラエルの民に示された十戒を含めて、合計613の律法があったのです。
これらは、創造主である神と全人類の救済計画のために召し出されたアブラハムの子孫であるイスラエルの民との間で制定されたものでした。
律法の主たる役割は、不完全な状態の人間に対して、何がダメ(罪)なのかを示すことです。
アダムとエバの失楽園以降、人間は不完全な状態、つまり、肉体と罪の性質がセットになりました。旧契約時代においては、罪の代価が犠牲と規定されており、それを幕屋(後の神殿)で、創造主である神に捧げることで、贖いをするという規定もありました。
ですから、人間は、罪の性質に対する葛藤がありながらも、創造主に対する信仰によってのみ義とされるという原則は、今日も変わっていないのです。
人間の内側にある罪の性質は、人間には為す術がないのですから、大切なのは信仰ということになるのですね。
人類の歴史上で、律法を全うしたことで義とされた人は一人もいません。
律法を守ることで、社会的評価は得たと思いますが、「義人は一人もいない」というのが、人類の歴史だったのです。アダムの子孫が引き継いだ罪の性質は、人間にとっての手枷足枷でした。ですから、メシアであるイエス・キリストの十字架上で全人類の罪科が贖われる必要があったのです。メシアであるイエス・キリストは、地上生活で律法を守り義を貫き、完全な犠牲として十字架で贖いと完成ずることができたのです。
また、律法は人間の反抗心に火をつけるという側面もあります。
悪ガキの思考ですね。「それだけはしちゃいけない」と言われたら、それをしたくなる気持ちが、ムクムクと膨らんできます。
むさぼる心について、パウロの葛藤をロマ7章で記しています。
律法自体は、悪でも罪でもなく、単なる基準に過ぎません。
しかし、その基準に照らして、自分の願望が妨げられるという気持ちになると、人間の中にある罪の性質が暴君のようになって暴れだして、自分自身では収拾がつかなくなってしまうのです。
今日でも、合法、違法、脱法など様々な状態の形容がありますが、自分の健康や精神に影響を与えるモノに対しては、慎重に対峙する必要がありますね。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません