咎めるを咎める教訓 清沢満之
『他人を咎めんとする心を咎めよ。 清沢満之』
どうして、人間は他人のアラ探しをして、咎めようとするのでしょうか?
私は、人間は自責に耐えられないので、「自責を放棄」して、他責に走っているようにとらえています。
一方、「自責派」の人もいるように感じています。それは、鬱的な症状になります。
「他責」と「自責」のパートナー関係も、お互いにイヤでなければ長続きするケースもあります。
しかし、その関係がパートナーの存在を脅かしたり、症状が重くなったりというケースも見受けられます。
そこで、このフレーズからの教訓です。
「自責に耐えられず、他責に走る自分の心を自制しなさい」というイメージでしょうか?
聖書の福音書などに出てくるのは「人を裁くな」という警告です。
また、自分の目のホコリを取らずに、他人を批判するのはお門違いだというニュアンスの指摘もあります。
大切なのは自他境界線です。
自分が最大限の配慮をしても、相手に届かないこともあると考えて、期待も控えめにする方がよいかも知れません。
他人格ですから、自分が期待した応答が為されるとは限りませんし、それは、相手の義務でもありません。
でも、その配慮は義務感ではなく、「ぬくもりが感じられる愛」をベースとして行いたいと考えています。
これは、人間として、和を重んじる雰囲気を醸し出している僧侶であり、哲学者・宗教家だった清沢 満之のフレーズです。
禁欲生活や肺結核を患ったことなどの人生の荒波を乗り越えてきた彼なりの秘訣なのかも知れません。
誰かを批判したくなったら、より良い人生のために、より良い人間関係のために活用できる、このフレーズを思い出したいですね。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) – 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。真宗大学(現・大谷大学)の初代学監(学長)。
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