ほんとうの大丈夫 「平安」は必要 箴言1:32

『32 浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。(箴言1:32 新改訳2017)』

「大丈夫」という言葉は、発する人によって重みが違うように感じられます。

「大丈夫」を乱発する人は、本当の意味では「大丈夫」ではないのかも知れません。

あの人に「大丈夫」と言ってもらえると安心だということも、あるように感じています。

自分の経緯を考えてみると、自分に「大丈夫」だと言い聞かせている期間には、多く口にしていた印象があります。主に、自分自身に対してですが…。

冒頭の聖句では、「大丈夫」の真逆の表現になっています。

「愚かな者の安心は自分を滅ぼす」とは、本当は「大丈夫」ではないと感じていても、何の配慮もせずに、むやみやたらに突き進むというイメージです。

この「安心」は、自分を滅ぼすほどのキケンを内包しています。

「浅はかな者の背信は自分を殺し」とは、何に対して背を向けるかです。

その決断をすること自体が、浅はかだと指摘されているのです。

ほんとうの大丈夫は、「大丈夫」の源を知り、そこに立ち返ることです。

目先の表面的な「安心」に心動かされることなく、「平安の源」を目指すことです。

それは、自分を殺したり、自分を滅ぼす方向性の選択に背を向ける転身をすることです。

つまり、創造主である神【主】に向き直り、その「愛」を祝福として受け取ることです。

その「愛」に、もれなく「平安」がついてくるのです。

光に背を向けると自分の影を見続けることになります。

光に向き直れば、自分の影を見る必要はありません。

祝福の光に照らされながら、大丈夫人生を歩む事ができるのです。

人生の山坂に共に居て下さる存在があれば、心持ちも違いますよね。「大丈夫」だと思って過ごす事ができそうです。

<ダビデの賛歌。> 詩篇23:1-6
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。

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Posted by dblacks