存在感は見えるという要素だけではない 「居るではなく有る」
「今日は、あの人がいないから寂しいな」なんてつぶやきが、どこかで起きているかも知れません。
あるいは、あの人はここにはいないけれど、いつも一緒にいると思っていると言う人もいますよね。
「存在感」と言う点では、「居ないから居ない」とする考え方と「居ないのに居る」とする考え方を並べてみました。
そもそも、「居る」と「有る(在る)」の差は何なのでしょう?
「居る」は、目に見える形を表現していると理解しています。
「有る(在る)」は、その「存在」そのものを意味しています。つまり、見えなくても、有るということです。
物理的な世界では、見えないものは存在しないことになります。
でも、化学の世界では、見えない空気はあるという事になります。
人間が生きているのは、見えない空気によって生かされているので、これを否定することはできないのです。
先日、富士山が見えやすい季節を選んで、半年も前から宿を予約して、一周してきましたが、見えたのは夜中と、昼間の一瞬でした。
そこにあるはずの富士山が、雲におおわれると、まるでないかのような気になってしまいます。
河口湖のロープウエイは、曇りの日で富士山が見えなくても60分待ちになるそうです。
見える日なら、その倍以上の待ち時間になることもあるのだとか聞きました。
観光の楽しみ方は、様々で、富士山のビュースポットで、雲におおわれた富士山をバックに自撮りをしている人などいました。
トラブルが原形のトラベル(旅)を満喫するのには、様々なマインド転換と創意工夫が必要なのだと学びました。
そこにあるはずの富士山が見えないと、その存在に、疑念や不信が生まれますが、再びその姿を見ることによって、そこにある存在感を再認識させられます。
さて、その様な富士山をはじめ、全宇宙を造ったのは、創造主である神【主】です。
そのように、私は信じています。
しかし、史実として、約2000年前イエスが幼子として、ベツレヘムで誕生したこと、そして、十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活された事を知っているのみです。
その姿を見ていません。
でも、聖書や先人の証言を聞くに連れ、その存在に確信を持つようになりました。
これから、世の中は大患難時代へと向かうと聖書には記されています。その前に、ひと時でも穏やかな時代が到来すればよいなと考えています。
「創造主である神【主】の存在」をどのように捉えるかも、永遠への大切なテーマなのですね。
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