「アガペーの愛」とは?
『たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13章)』
使徒パウロによって記された「愛の章」と言われる箇所です。
「究極的な愛」を「神の愛(アガペー)」として記しています。これには、「すべてを堪え忍び、柔和で恵みに溢れている」という要素と「真理を曲げることを許さない厳しい」要素があります。それこそ、創造主である神の本質である「恵みと真理」の二つの要素なのですね。
真理に基づけば、杓子定規で「裁く怖い存在」というイメージを持ったりしますね。でも実際は、期限を設けられていて、「許す期間」が設定されているのですね。
また、放蕩息子の父のように、息子の申し出を受け止めて、それを引き留めようとも、懇願したり、言いくるめようともしませんでした。つまり、息子の自由意志を尊重したのです。そして、放蕩のすえに帰還した息子を暖かく許し迎え入れたのです。このストーリーからは、「アガペーの愛」が浮かんでくるように感じます。
「愛」ということばは、時には甘く、時には寛容にと使われますが、その本質は、よく理解できない要素があるようにも感じています。また、世の中には、「歪んだ愛」が多くあるのも人生の中で味わって行きます。
人が「愛」を心に感じる時にこそ癒やされるのではないでしょうか。
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