恵みの賜り物 エペソ2:8
『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ2:8新共同訳)』
筆者は、裸で産み落とされた人間は、いのちも魂も創造主である神から授けられていると考える方が自然だと考えています。
この考え方に異議を唱える人も世の中には多いですね。それぞれの信仰や考え方ですから、個々人がどのように考えていても、致し方が無い領域の話ですね。
ここでは、究極的な救いについて説明しているフレーズです。
究極的な救いについて触れます。創造主である神がエデンの園で、アダムとエバが光の御使いを装うサタンに誘惑されて、禁断の果実を食べてしまった一件がありました。
その禁断の果実を食べたことによって裸であることが恥ずかしく感じるようになった二人に、創造主である神は動物の毛皮製の衣を与えられました。これは、恥を覆うために、動物の犠牲が必要だったことを表していると言われています。
さらに、アダムとエバを誘惑して騙したサタンには、「やがての時にメシアが現れサタンが永遠に滅ぼされる(創世記3:15)」との宣言がなされました。この宣言が「原福音」とも言われていて、後のメシアの誕生、そして、十字架の死、復活と実現していったのですね。
それはなぜか? というと、人間の代表であったアダムとエバが、創造主である神との自由な交わりを自分たちの欲望で拒絶する行為をしてしまったということに起因しているからです。この原因をつくったのは人間なのですね。
その後の歴史を見ても、人間の努力だけで、天に到達しようとする試みが今も続いているように見えますが、それらは、サタンや人間が可能なように見せていても、成功することはないでしょうね。
「罪」と表現されるのは、人間の独り善がりな行為から、どうしても天にアクセスできない状態に至ったということなのですね。
何度、助けても同じような過ちを繰り返すのが人間ですが、人間の努力だけで、その状態から抜け出すのは非常な困難を伴います。修行をしたりしても、残念ながら、究極的な救いに至ることはできません
創造主である神から備えられた唯一の方法を信じるか否かの選択になるのですね。
これが、「恵みにより、信仰によって救われました。」という真意なのですね。
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