叱られる意味を考える 箴言10:17
『訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、叱責を捨てる者は人を迷わせる。(箴言10:17新改訳2017)』
「叱られた」と落ち込んでいる人もいることでしょう。
今の時代は、「他人に物申す」のが難しいと感じている人が多いのではないでしょうか?
筆者もその一人です。
他人を誉めるのも、けなすのも、その伝えたいコトの本質が、伝わらないとかえって関係を悪くしますから、ついつい口をつぐんでしまうというパターンがありますね。
自分で習得したワザは、もちろん教えてもらったモノもありますが、観察して自分なりに習得したモノもあります。教えてもらう時には、先輩のようにはできないので、先輩が熱心のあまり感情的に、半ば怒りながらということもあります。
この怒りが、感情的にとどまらず、手が出る足が出るとなってしまえば、暴力事件で傷害罪に問われかねません。
親子の間柄でも、「叱る(叱責)」や「訓戒」というやり取りがスムーズにできない時に、子どもが増長して、親が困惑することもあります。
ゲームやスマホなどに制限をかけても、ついついという流れで、勉強が疎かになったり、ビックリする額の課金をしていたりして、果ては事件化してしまうという報道もあります。
親が模範を示すということも大切ですね。
でも、小さい頃から、脅しや脅迫みたいな暴力系コミュニケーションではなく、適切なコミュニケーションをとれるのが理想です。
そのためにも、「共通のチャンネル(周波数)」は確保しておきたいですね。
「叱られるうちが花」とも言われますから、誰かに、何かを指摘されたなら、有難く拝聴するのが良いみたいですね。
「叱る」のと「怒る」のを意識して、明確に線引きするのも大切です。
相手に対して「何をどのようにして欲しいのか」を確実に伝える方法が一番大切なのですね。
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