岩を打つと水が出る 出エジプト17:6-7
『さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。(出エジプト17:6-7新改訳2017)』
「その岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」と言われたとおりにすると、その通りになった。次の聖句は、その情景を描写したものとされています。
『荒野で神は岩を割り大いなる深淵の水を豊かに飲ませてくださった。あふれる流れを岩からほとばしらせ水を豊かな川のように流れさせてくださった。(詩篇78:15-16新改訳2017)』
聖書に出てくる「岩(石)」が象徴的に用いられるときに、メシアであるイエス・キリストを意味しています。このメシアは、神様100%人間100%という唯一無二の性質を持ち、時には、試され、イスラエルの民から拒否され、ある人たちはつまずきましたが、その本質は、「救いの岩」であり、永遠の存在なのです。
このインパクトが大きい出来事が起きた場所をモーセが、次のように命名しました。
マサは、「テストする」とか「試みる」という意味があります。モーセは、イスラエルの民が創造主である神をテストしたことに因んで、この名前をつけたのです。
また、メリバは、「争う」という意味で、「イスラエルの民はモーセと争った」という事に因んでいます。
名前を残すと言うことは、後々にも語り伝えられるという事でもあるのですね。
共にいて下さるという安心感は、自分が望んでいることが実現しないかも知れないという不満と共に、強烈な不信感に変わることがあります。
イスラエルの民は、「創造主である神が共にいて下さるのか?」 また、「自分たちの必要を満たして下さるのか?」
それを証明して欲しいという疑問と欲求の塊が、そのようなアクションに繋がったのでしょうか。
この光景は、まるで、神と人が入れ替わったような情景ですね。
これは、不完全な人間が神に成り代わってしまうという、人間が受け継いでいる弱さでもあります。
自己を正当化するために他者を責めるということもありますが、本当のところを見誤らないように気をつけたいモノですね。
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