善が悪に勝利する時 ヨハネの黙示録6:9-10、15-17、20:10-15

『9 子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(ヨハネの黙示録6:9-10新改訳2017)』
『15 地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。16 そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(ヨハネの黙示録6:15-17新改訳2017)』
『10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20:10-15新改訳2017)』

イエス・キリストが十字架に架かった時代を目撃していた弟子たちは、復活のイエスに出会い、命をかけて宣教をしました。その行く末は、石打ちの刑、逆さ十字架の刑やX型の十字架の刑になり、殉教をした人もいました。

彼らは、イエス・キリストの足跡をたどり、【主】に対する信仰により天への希望を伝え、一足先に【主】の所へ召し上げられたのです。

近代の歴史でも、信仰者への迫害がくり返し起こり、また、殉教へ至るケースもあります。

さらに、これから先の時代にも、迫害や殉教が起こり続けると聖書には記されています。

殉教とは違いますが、権力の暴走や狂気による虐殺も行われる人間の歴史の残酷さに、怒りを覚えている人も多いですね。

なんと理不尽な事でしょう。

信仰者の場合は、肉体的生命を卒業したら、天に召し上げられるのですから、肉体的死は永遠なる生命への通過点です。しかし、その信仰を持たないままの肉体的死は残念でなりません。その人が対外的に表明しなくても、【主】との間で良好な関係を築けている事を願うばかりです。

勧善懲悪をテーマにしたドラマが、形を変えて作られるのは、人間の理不尽さに向けられている怒りをスッキリさせる役回りを果たすためだと、私は考えています。しかし、くり返し放映されても、ある程度の視聴率が期待できると聞いた事があります。その理由を考えてみると、そのドラマを見た直後は、一時的に怒りを収めても、その怒りは決して消える事がないという現実があるのでしょうね。

信仰者が一番身近に希望を持っているイベントは、イエス・キリストの空中携挙です。信仰者を天に引き上げて下さるのです。

その後の地球は、ますます厳しい時代になります。言論の統制が進んでいる2022年よりも、さらにキツくなるでしょう。その中で、世界の潮流に逆行する個人の思想信条を表明するだけで、いのちをとられる人が増えるのです。

信仰者の希望は、永遠なる生命です。例え、殉教しても永遠なる生命が確定するのです。

また、殉教させた権力者たちも必ず裁きを受け、火の池に投げ込まれます。それが「血の復讐」の意味であり、【主】は義を通されるのです。

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Posted by dblacks