殺すなの真意 マタイ5:21-22
『 ◆腹を立ててはならない
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 (マタイ5:21-22新共同訳)』
ここで使う「殺す」という言葉の意味合いは「個人的な理由で、殺意をもって殺すこと」を指しています。
これは、モーセの律法の第6戒の「殺してはならない」についてのお話しです。
そもそも、いのちの尊厳を教えたモノで、「故意に殺すこと」を禁止しています。
聖書には、「殺してはならない」と言いながら、「殺さなければならない」と記してある箇所もあるので、大いなる矛盾だと言う人もいます。
以下は、「殺さなければならない」と記された聖句です。それには理由がありますから、明確に区別されています。
「…姦通した男も女も必ず殺さなければならない。(レビ20:10)」
人間の欲求は、いつの時代でも、自分の欲望を実現するコトに、スゴいエネルギーを注ぎ込むモノです。その一つが、姦通です。これに対しては、結婚関係の尊厳を重んじ、パートナーに対する裏切り行為として、即、死刑とされました。
「血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺しても良い。…(民35:16-21)」
次に、故意に殺人を犯した者は殺してもよいとされています。また、過失で人のいのちを奪ってしまうことがありますから、その場合は、逃れの町に逃げ込むことで、復讐から回避する事が許されていました。
「あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。(申命記13:15)」
さらに、偶像崇拝を煽動した者だと認定されると聖絶の対象とされました。また、主(神)が命じた戦いでの殺人は許されていました。
死刑の意義は、廃止も含め、議論がありますが、少なくともモーセの律法第6戒を根拠に廃止をするという論拠は、的を射ていないと考えられています。
いのちの尊厳と法の秩序を立てること、そして、安心安全に生活できる環境を守るためには、どのようなしくみが大切なのかを慎重に考える必要がありますね。
人間が、人間のいのちを奪うことに関して、良心の歯止めがあって、多くの人は、互いの尊厳を保てています。でも、ごく一部の人が、利己的な理由から、人を殺すことを企んで実行している現状には、怒りを覚えます。本当の極悪があぶり出されて、法に基づく対処がなされることを願います。
冒頭の聖句は、メシアであるイエス・キリストとパリサイ人が用いる口伝律法の解釈が違うことを説明しています。メシアの律法解釈は、「憎むことで殺すことになる」というように、モーセの律法は心のあり方も重要なテーマにしていると説明しています。
「…人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはない…(1ヨハネ3:15)」ともありますから、心得ておきたいですね。
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