命を見つけて恵みをいただく 箴言8:35-36
『なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、【主】から恵みをいただくが、わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」(箴言8:35-36新改訳2017)』
「死」と言う言葉は聞きたくない人が多いワードです。そこで「ジ・エンド(終わり)」というイメージが強いからでしょうか?
「いのち」というワードには希望を感じる人が多いでしょうね。新たないのちの誕生は、将来に目を向けさせるエネルギーに満ちていますね。
大人だけの生活空間にいると、ひっそりと落ち着いて暮らせますが、いのちのエネルギーによる刺激は少なくなるように感じます。
また、日々の生活に追われて、疲労が蓄積してくると、将来への希望をイメージすることさえもできなくなってきます。
家族を抱え、仕事に追われ、住宅ローンを抱え、車のローンを抱えていると、大切なコトさえ考える心のゆとりを失ってしまっているという人が多いのではないでしょうか?
「なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、【主】から恵みをいただく」の部分を一度、思いめぐらしてくださると嬉しいです。
聖書に基づいて考えると、人間は創造主である神に造られて生かされています。
自分のいのちは自分のモノだと思っていたいですが、実際には、「生きる、そして、やがて死ぬ」という要素は自分ではコントロールできません。船に例えて言うと、自分は船長であり、船主(オーナー)は創造主である神と理解する方が合理的ですね。その船主(オーナー)の処にこそ、いのちがあり、主からの恵みがあるというのです。
「私のいのちは私だけのモノだ」に、こだわり続けると、船主(オーナー)に背を向けることになります。
「自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛する」と「いのちと主からの恵み」のどちらを選ぶかをイメージしてみてください。
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