自分を生きることと自分を捨てることの境界線
「自我に死になさい」と言われて、混乱する人が多いようですね。
これは、グループのリーダーが、自分の意向に周囲の人を沿わせようとするときにも使われることがありますから、たいていその様なときに違和感を持たれるのだろうと想像しています。
筆者は、自分でコントロールできる要素とできない要素という区別をするときがあります。
「罪」とされる状態の論議も様々ありますね。
肉体的生命で生かされている人間は、「罪」を犯してしまう存在です。そして、それを止めようとすればするほど、また罪を犯してしまうという経験を持つ人もいることでしょうね。
行為の一端が「罪」と認定されるのですが、人間のコントロールできない要素の一つに、アダム以来のDNA(「罪」を含む)を引き継いでいます。つまり、根っこの部分にこれがあるので、やめられないという状況なのです。自分で解決できないのに自分で何とかしようとするのが「自我」なのかも知れませんね。
この部分は、「創造主である神がメシアであるイエス・キリストを唯一無二の犠牲として、十字架に架かけられて死に、葬られ、三日目に復活した」ということを、自分のコトとして信じ受け入れることによってのみ解決されるのですね。自分のいのちを自分で断ったとしても、罪の解決とは認められないのです。
重要なポイントとして、自分で解決できないことを受け入れるというのが、自分を捨てるという要素になりますね。つまり、創造主である神の愛を受け入れる信仰者として感謝して生きることですね。
自分を生きるとは、自分でコントロールできる日常活動に焦点を合わせて精一杯生きるということですね。肉体的生命はだんだん綻びが出てくる身体に永遠の存在である霊魂が宿っているのです。衰えていく自覚を持ちながら、永遠の幸福マインドで生きるというのが大切だと考えています。
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