怒りを覚えるモーセ 出エジプト32:15-20
『モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。(出エジプト32:15-20新改訳2017)』
モーセの怒りについては前回も触れました。
モーセは、イスラエルの民の惨憺たる状況を察知して、まず【主】の怒りに対応することを優先しました。
怒りながらも冷静さを感じます。
まるで、その怒りをパワーに変換して、石板(さとしの板)を砕いたかのようです。
モーセが【主】から授与された石板(さとしの板)を砕いたことは、シナイ契約の破棄を意味します。でも、34章で【主】から再授与されることになるので、シナイ契約は復活するのです。
次に、金の子牛をどうするかです。
「彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」とあります。
イスラエルの民に飲ませて体内を通過することによって金の子牛は汚れたものになったと考えるコトができるようです。
さて、応急処置のメドが付きましたので、アロンとイスラエルの民についての追求が始まります。その珍妙なやり取りは、次回に譲ります。
怒りは、どのような時に感じるか?
それは、期待が裏切られたときですね。
モーセからすれば、仲介者として、【主】から律法の授与され、もう少しでイスラエルの民にお披露目できるとのイメージが大きかったと想像します。
でも、実際にイスラエルの民は、不安に打ち負かされて、期待して待つような心理状態ではなかったのです。
神の怒りは、イスラエルの民に対して、真の礼拝をするという、最良の関係性に至る寸前に、最大の裏切りにあったという事に起因しています。
「待てない」という心理は、近年、広がってきていると感じます。
その原因の一つに、ファストフードの台頭があるように感じています。それは、ファストフードが悪いわけでは無くて、それを利用することによって、それに慣れてしまう人が増えてしまうという状況です。
座ってオーダー、あるいは、インターネット予約でオーダーしておけば、待ち時間がほとんどナシで提供される時代ですから尚更ですね。
待てない時代をどのように過ごしていくかも一つの課題ですね。
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