究極の喜び 伝えられた 伝わったという実感 そして、温もり
通訳が必要な会話があります。
多言語同士の橋渡しには必要不可欠です。
しかし、文化的背景や習慣の違いから、細かいニュアンスまでは伝えきれないことがほとんどです。
同じ言語でも、生活習慣や地域差から、相手の理解を得るために、かなりの説明を必要とするケースがあります。
自分の気持ちを吐き出す時には、大きな障壁になることがあります。
ある程度の情報共有ができている相手で、そこそこわかり合えている相手などいない人が多いのではないでしょうか?
言語を使える人間が味わえる究極の喜びは、「相手に自分の意図が伝わった」という事ではないかと、私は考えています。
また、自分が「相手に伝えられた」とも表現できます。
つまり、双方向のコミュニケーションが成立したという状態ですね。
様々な人とのコミュニケーションで、一方的に話す人がいたり、ついつい遠慮したり、躊躇したりして話せない人もいます。
それぞれの関わり方を探るのが良好な関係性を維持するために必要な課題でもあります。
お互いに、伝え合えるという関係性は、多くはないでしょうね。
でも、「一人でもいる」と言う人は幸せですね。
対話の中で、「沈黙」の時間がでてきます。これも、対応が難しいですね。
私は、その「沈黙」を共有した方がよいと考えて工夫しています。
相手の戸惑い、表現方法の模索、何を表現するかの逡巡などもありますが、その様な時には、相手の心に動きがあると意識して、受容するようにしています。
「沈黙」を恐がって、取り繕おうとすると、せっかくの機会を不意にしてしまうこともあります。
「伝える」「伝わる」には、さまざまな山坂・紆余曲折があります。
そのプロセスもコミュニケーションですから、それも含めて機会を活かしていきたいと考えています。
「伝える」「伝わる」の本質は、温もりなのだとも実感しています。
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