天に宝を積むこと 箴言19:17
『貧しい者に施しをするのは、【主】に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。(箴言19:17新改訳2017)』
誰かを気遣って贈り物をしたら「御礼」が返ってくるという流れで、世の中は動いている一面があります。
この「御礼」とは、お返しのモノのケースもあれば、御礼のハガキや電話などの言葉かも知れません。
相手に喜んで貰えたら贈り物をした側も喜びを感じるという不思議な心の動きもあります。
一方、全く反応がないケースや喜ばれるどころか迷惑がられるというようなケースは、誰も喜こんでいないという悲しい現実が浮かび上がります。
贈る側の理想は、自分が心をこめた贈り物を届けて、満面の笑みで「ありがとう。とても嬉しい」という関わりなのかも知れません。
受け取る側にも、事情や状況が異なりますから、より良好な関係性を維持発展させられる方向性が大切ですね。
ここで、取り上げた箴言は、「貧しい者に施しをする」というテーマです。
特に、貧富の差が大きくなり、貧困に苦しんでいる人が増えてきました。今日の食事にも困るような人が増えています。
自分がどのようにサポートができるのかを自問しています。今、取り組んでいることの一つは、生活の中で、契約の見直し(スマホ契約)などをサポートをしています。また、精神的な疲弊や困窮に対して、傾聴や福祉につながるアプローチの支援もしています。しかし、自分の身の回りのローカル限定です。
惨状を目の当たりにする度に、自分の無力感に苛まれることもあります。明日はわが身かも知れませんから、まずは、自分自身のことを整えていこうと意識を持っています。
そして、その時々に、できることに備えたいとイメージしています。
今までの経験として、食料などを求めている人に関わったことが何回もあるのですが、余剰の衣服を渡したり、食事をご馳走したり、経済的に援助をしたりしました。でも、何回も来られる方もいて、困惑してしまったこともあります。
その人に対して、何が必要なのか?は、ケースバイケースで、それを切り分けることの必要性を感じました。
新約聖書の中には「天に宝を積む」と記されている箇所もあります。
一時的な同情からではなく、「天に委ねる気持ちで施す」ということが肝要なのだと考えます。
施しや献金は、義務感や強制されてするものではなく、心から自発的にするという原則を大切にしたいですね。
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