積極的な自由と消極的な自由 エーリッヒ・フロム
『かれは「…からの自由」の重荷にたえていくことはできない。彼らは消極的な自由から積極的な自由へと進むことができないかぎり、けっきょく自由から逃れようとするほかないだろう。 エーリッヒ・フロム』
「自由とは何?」という疑問が渦巻いている人は、多くいると感じています。
もし、それが自分に対する重荷であるならば、それから離れられることは解放に至るのですが、人間の心理はそれほど単純ではないということのようです。
「自由」というワードは、解放というイメージで憧れるのですが、別な一面は、「フワフワ」しているとか、自己責任が伴うイメージもあり、手放しでは受け容れ難いと考える要素もあります。
反対に「束縛」があれば、そこからある程度の開放感を得たいと感じても、全く解き放たれると、かえって所属感による安心や自分の立ち位置を失いかねない不安にも襲われてしまいかねません。
消極的な自由は受け身的なものであり、積極的な自由は自らを奮い立たせて、サメなどの強敵がいる大海原に泳いでいくイメージを感じます。
自由にはリスクが付き物で、何かに属していれば、ある程度の補償などが期待できるのに、それを自分でカバーしなければなりません。
今、日本でも起業や副業を奨める時代です。昭和型の終身雇用は、ほとんど成りを潜めています。
非正規社員やパート、請負と不安定な立場におかれる人がどんどん増えています。
有給休暇が付与される人は、まだ勝ち組に属していると考えた方が良さそうです。
このフレーズを今流に理解しようとすると、「自己責任のフリーランスになれる自信や決心ができないのなら、会社にしがみついてでも生きていった方が良い」というイメージでしょうか?
家庭の人間関係でも常に関係の改善が必要だと考えています。
お互いに束縛で雁字搦めにするのは、双方にとって、あまり良い結果をもたらさないでしょう。
しかし、同じ屋根の下で生活する以上、ある程度の共有時間を設定する必要があります。
自分自身の自由時間も大切ですが、それだけに固執すると、共有時間という幸せのためのコミュニケーションも損なわれることになりかねません。
「自由」とは何か?
それは、自分自身を確認し、充実させるために必要不可欠な領域なのかも知れませんね。
「自由」は憧れの対象ですが、それだけに、極めるのは結構ハードル高めのユートピア(理想郷)なのでしょうか?
エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm、1900年3月23日 – 1980年3月18日)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。
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