取り得を見る習慣を 勝海舟
『人はどんなものでも決して捨つべきものではない。
いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ。 勝海舟【氷川清和 講談社】』
人のアラ探しは、しやすいものです。
でも、良い所探しは、案外、難しいですね。
ある人が教えてくれたのは、「アラ探しで見つかるところを裏返せば、その人の長所になるよ」と言うモノでした。
それ以来、どうしても見つけられない時には、これを採用しています。
船を仕切る立場にあった勝海舟は、長期間にわたる船での移動で、その船内での人間関係には、色々な配慮が必要だと実感したから、このようなフレーズが生まれたのかも知れませんね。
軍艦奉行・木村喜毅、福沢諭吉、ジョン万次郎などという有名どころをはじめ、その他にも多くの人をのせて渡米した時でも、船内の様子は如何ばかりであったか測りがたいですが、福沢諭吉の気持ちも穏やかではなかったようです。
航海には、嵐も付き物ですから、人間関係のトラブルもその一つとして、回避策を考えていたのかも知れないと想像します。
このフレーズの発想は、リーダーシップを発揮するためには、大切な基礎だと感じます。
その理由は、人を活かすためにどのようにアプローチするのか?という命題に光明を当てるものだと感じるからです。
鏡を見ながら、自分の良い所探しでも練習しましょうか? ナルシシストと言われちゃうかも知れませんね。
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家[1]。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。日本の近代史最大の内戦[2]戊辰戦争において即時停戦と江戸城無血開城を主張し実現させ日本の平和主義に貢献した。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる[3]。(中略)
万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。このアメリカ渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣であった。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米した。この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)、閏3月19日(5月8日)にサンフランシスコを旅立ち、品川への帰着は5月6日、旅程は37日で全日数は140日であった[15][注釈 9]。
咸臨丸には軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、小野友五郎などが乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も同乗した。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込んだ。咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある[注釈 10]。
古来、海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われている(ブルックも同乗時からそう呼んでいる)が、それに反発する諭吉の『福翁自伝』には木村が「艦長」、海舟は「指揮官」と書かれている。しかし、実際にそのような役職はなく、上記のように木村は「軍艦奉行」、海舟は「軍艦操練所教授方頭取」という立場であった。アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国することができた[注釈 11]。
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