ヨハネの黙示録のまとめ1 ヨハネの黙示録22:6-12

『6 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。
7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」
8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。
9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」
10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
12 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。 ヨハネの黙示録22:6-12新改訳2017』

御使いは、ヨハネが書いてきた内容は、信ずべきものであり、真実であると言います。その理由は、情報の源が、「忠実また真実」(ヨハネの黙示録19:11)と呼ばれる神だからです。

実際に読んでみると、聖書は難解です。分からないことが多いです。

信仰は、今は分からないが何れわかると、理解できなくても信頼する立場をとれるのです。

神が、御使いを遣わして、ヨハネに啓示を与えました。つまり、預言者たちに啓示を与えてきた神ご自身が、ヨハネに、これらの啓示を与えたのです。

その内容は、「すぐに起こるべき事」です。ですから、神のしもべ(信仰者・聖徒)たちは、常に警戒している必要があります。さらに、この啓示による希望によって苦難に打ち勝つ力を得ることができるのです。

ヨハネの黙示録の冒頭で、この書を読み、その内容を心に留める者に祝福が約束されています。

この祝福の約束が、再度くり返されています。「この書の預言のことばを守る者は幸い」とあり、「守る」とは、「心に留め、見張っている状態」を意味しています。この約束の成就は、キリストの再臨によって保証されています。

祝福の約束が明確に書かれているのは、ヨハネの黙示録だけです。それが、ヨハネの黙示録が特別な書であると言える理由です。また、ヨハネの黙示録は、聖書の啓示全体を要約した書でもあります。

ヨハネは御使いを礼拝しようとしています。人間的な感覚だと、自分がその立場だと同じことをしてしまいそうです。それは、天使が、人間の目には畏怖の念を抱かせる栄光に富んだ存在だからです。

マタイ28:2-4に記されているメシアであるイエス・キリストの復活のシーンでは、その神々しい姿に屈強なローマの番兵達が震え上がり、死人のようになったとあります。御使いは、神のメッセージの伝達者なのでその位置づけが運ぶ神々しさを見せられたのです。

御使いは、ヨハネに驚くべき啓示を与えたので、この応答が反射的に出てきたのですが、彼の応答は間違っています。

即座に、「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」と静止されて、神を礼拝するように促されます。

創造主である神【主】以外の人物や物を拝むのは、偶像礼拝で、天使礼拝(コロサイ2:18-19)もまた偶像礼拝なのです。

御使いの言葉は、ヨハネが記録した内容が真実なものであることを認証しています。御使いも、私たち人間と同じく、神に仕えるものであるので、神だけを礼拝することを肝に銘じたいです。

かつては、カトリック教会のマリア礼拝や聖人への祈りがあり、21世紀にはサタン教会なるものも存在するので、欺かれないように警戒する必要があります。

この書の預言を宣告せよとの命令が宣告されました。

ダニエルは、預言のことばを封じておくように命じられました(ダニエル12:4)。

ダニエル書は、長期にわたる出来事を預言した膨大な書であり、ダニエル自身が、自分の書いていることを十分に理解できていないようです。そこで、神は、終わりの時が来るまで、そのことばに封印をするように命じたのです。

ダニエル書の預言は、ヨハネの黙示録によって明らかになったので、ヨハネの黙示録の預言は、封じてはいけないのです。その預言が成就する時が近づいているのです。

「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(11)とあるのは、神の愛に応答する人と拒否する人の差が開いていくことを形容しています。それぞれが信じている方向へと進むのですから当然です。

キリストの再臨に続いて、人々の運命が2分され、確定するのです。つまり、ヨハネの黙示録の内容を受け入れた人は、ますます清潔に進みます。しかし、汚れた者たちはヨハネの黙示録を拒否し、その汚れは、さらにひどくなっていくのですね。

報いは確実です。キリストは、罪人をそのわざに応じて裁くために再臨されます。そして、ヨハネの黙示録を拒否した彼らは、「白い御座の裁き(ヨハネの黙示録20:11-15)」を通過し、火の池に入ることになります。

一方、聖徒たちは、大患難時代の前に携挙を受け、祝福のためのキリストの裁きを通過するのです。

子羊の血潮によって贖われた者たちは、罪の裁きから免れます。聖徒たちに与えられる褒賞は、信者になってからの行為に基づいて決まるのです。

「キリストの裁きの座(1コリント3:11-15、2コリント5:10」を参照ください。

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Posted by dblacks