学問の存在意義 フェリシテ・ド・ラムネー
『学問は、我々がいかほどまで無知であるかを分からせることよりほかには、ほとんど役に立っていない。 フェリシテ・ド・ラムネー『宗教無関心論』』
自分が無知であることを理解することが大切だと誰かが言っていましたね。
このフレーズも、その流れです。
学問や研究は、どのように活用されれば日の目を見るのでしょうか?
産学官の連携によって、商品化することによって、お金を産み出して、分配をするという試みもあります。
しかし、実際は、それも範囲が限られているようです。
基礎研究などは、コストがかかるので、予算が取れないという実情もあるようです。
研究機関や大学なども、あちらこちらにあるようで、人口の変化によって、様々な影響があるようです。
お金にもならないのが学問という考え方もあります。
学者を続けるためには、資産家であったり、一族に実業家がいたりして、スポンサーがいないと難しいようです。
学問は、間口も広く、奥行も深いので、様々な取り組み方があると考えています。
①純粋に楽しむ方法、②兼業的に取り組む方法、③職業的に取り組む方法などですね。
「道楽」という言葉は、あまりポジティブに聞こえない一面があります。収入に結びつかない類いのことを「道楽だ」と揶揄する向きもあるからです。
でも、私は、「道楽」と言う言葉は、ポジティブに捉えたいです。
「人生の中でそれぞれの興味がある道を楽しむ」ことだと思っているからです。
①は、その分野では収入を当てにしないアマチュア的な立場で、今で言えばオタク的な振る舞いというイメージでしょうか?
②は、兼業タイプです。その分野以外で、生活を維持できる収拾を得る設定です。その分野で得られる収入が少しでも、生活も学問も両立できますよね。
③は、その分野に専心する職業的立場です。これには、スポンサーも含めて、サポート態勢が必要なケースもあるでしょうね。
人生で、道楽を極めるならば、このような考え方も大切ではないでしょうか?
学問や技術を維持発展、伝承させる取り組みは大切です。
学問の有効な活用と継続的な流れがよりスムーズになっていくように願います。
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