道を守る存在 箴言2:8

『8 公正の道筋を保ち、主にある敬虔な人たちの道を守られる。 箴言2:8新改訳2017』

なんとなく毎日を生きている風潮が強い世の中です。

私も、時折、その渦に巻き込まれていることに気づかされる一人です。

今の時代は、快適度が高いですから、ご用心です。真偽のほどは別にして、情報は溢れかえっていて、自分が興味ある対象に、ドップリ浸っているうちに、時間が過ぎ去っていくのです。

日本でも、生きていくのがやっとという時代がありました。ほんの数十年前です。その時代は、薪でお湯を沸かすなどして、早朝からの炊事から始まり、銭湯が主流の時代、自宅に風呂があっても沸かすのもひと仕事でした。

ですから、石油ボイラーなどで快適度が上がった他人を羨むことがあっても、自分たちの生活を守ることに、必死でした。

今は、声をかければ、「AI」が塩梅良くしてくれる時代です。でも、どこかに人間らしさを忘れてきているような気になっています。定期的に、自分自身を慈しむために、優先順位を考え直す機会を持つ必要性を感じています。

さて、冒頭の箴言ですが、「道筋」とか「道」という言葉が出ています。

世の中は、倫理観がすべてを管理してくれる訳では無いと考えています。時に、道筋を間違うと軌道修正が困難に感じるコトもあります。

本筋ではない脇道に、迷い込むときに、そこに快感があれば、依存対象になり得ます。人間は、暗がりのネオンサインに誘い込まれる要素を持っています。キレイな蝶蝶が炎に近づいて生きように、欲求と理性は背中合わせなのですね。

「公正の道筋」は、「聖人君子」が行く道ではなく、天から光が射し込んでくる所を意味しています。

創造主である神【主】は、その道筋を保っているのです。

それは、「主にある敬虔な人たちの道」という言葉に表現されています。

「聖人君子」ではなく、「【主】を認める信仰者」が安心して進める道が守られるという事です。

人間には、自信が必要ですが、自分自身をわきまえる謙虚さも大切です。

「天から光が射し込んでくる所」は、自分が正しいと言うだけでは踏み込めない領域です。

その為には、「【主】を認める信仰者」の状態であることが求められます。

人間は、信仰者と言えども、その中に「信仰者(霊的生命)」と「不信仰者(肉体的生命)」が同じ人格に同居しています。この間を揺れ動いていると言うことを知っておく必要があると考えています。

天から光が射し込んでくる道を歩けるというのは、すばらしい特権のようですね。

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Posted by dblacks