信仰のバランス 何を共有するのかが課題

私は、人間が常に何かの信仰を持っていると考えています。

ここで、使っている信仰者とは、創造主である神【主】に対する信仰を持つか否かです。

広義の信仰は、自然崇拝や無神論まで及ぶと考えています。

タイトルにあるように、信仰はその対象が何かで、何を中心において、何を共有するのか?ということです。

キリスト教は、シンプルに表現すれば、創造主である神【主】が全能者であり、アダムとエバが植物の園エデンで犯した罪の贖いをするために、イエス・キリスト(第二位格)をこの世に遣わし、完全な犠牲の子羊として、十字架に架け、死に、葬られ、三日目に復活したことにより、永遠の命への扉を開いたこと、信仰を持って、それを自分に適用するために信仰を持つ人に、救いと永遠のいのちを与えるという部分を共有しています。

これが、地域教会のローカルルールなどが加わり、複雑化しているという要素があります。

シンプルに表現した段落だけを共有していれば、多くの一致を見ることができますが、その他に枝葉末節が付け加えられているのです。

中には、「キセキが起きなければ信じない」という極端な話もあり、人間の求めの多様さを感じずには居られません。

世界を見ると、一神教の地域は少なく、多神教の地域が圧倒的に多いと言うのも不思議です。

キリスト教も伝播の段階で、土着化していくときに、受け入れられやすいように歪みが出てしまったという負の歴史もあります。

信仰は、持つ人の素地があるので、上書きが及ばない要素があるのは、何とも難しい限りです。

自分は、何のために信じるのか? という動機の部分が大きいですね。

御利益主義が、信仰を持つ動機の大半ならば、それをもたらすのは、どんな対象なのでしょうか?

人間の欲をくすぐったり、恐怖を与えて不安を煽ったりという宗教の歴史も続いていますね。

このヨハネの黙示録の預言なども、恐怖を感じる人がいるのかも知れませんが、それから、回避する方法が無代価で提示されているのです。

なので、「壺」や「札」などを買う何かとは、明らかに違いはあるのです。

地域教会は、洗礼などが入口に設定されているのですが、天的な教会は、信仰を持つか否かの判断です。

目に見える範囲と、見えない範囲、やはり、人間の「これなら絶対大丈夫」という願望は、そう容易くは手に入りそうにありませんね。

信仰の世界、どのように考えますか?

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Posted by dblacks