分岐点に立つ時 箴言11:5
『11:5 誠実な人の義なるわざは、その人の道を平らにし、悪しき者は、自分の悪事によって倒れる。 箴言11:5新改訳2017』
「正直者が馬鹿を見る」世の中と嘆く人が多いように感じます。
本来、人間は、良心に恥じないように生きています。
でも、「目先の欲」に誘われるときもあるものです。
まるで、目の前にニンジンをぶら下げられて、試されているかのようです。
魔が差すときに、間違った行動を選択してしまう事もあります。
その先に待ちかまえているのは、「自分の悪事によって倒れる」というリスクです。
特殊詐欺が横行する世の中ですが、頻度高く検挙されるのは、末端の「受け子」です。
割の良いアルバイトだと勘違いして、口車に乗せられて、犯行に及ぶのだそうです。
人生には、様々な選択肢があるはずですが、分岐点であれば、右か左を選べば良いのですが、時には行き止まりの道で、そびえ立つ壁しか見えないという心境に至ることがあります。
まるで、吹雪の中、ホワイトアウトした時のようです。
その様な時に、ジッと立ち止まって、耐える事ができれば良いのですが、いのちの危険を感じれば、イチかバチかの行動に出てしまうしか無いように感じます。
目の前に「蜘蛛の糸」がぶら下がっていたら、飛びつきたくなるのも理解できる部分はあります。
それが、助かる方法なら良いのですが、その先のことも十分に考えておく必要があります。
箴言に記されている「義」を考えておく必要があります。
これは、人間のチカラで到達できる領域ではないのです。
この「義」という漢字は「羊」の下に「我」という成り立ちです。これこそ、聖書の中心テーマなのです。
つまり、旧約聖書で預言されていた救世主(メシア)が、新約聖書の冒頭で登場し、「罪を取り除く神の子羊」として、十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活したという要素が深く関わっているのです。
人間が、創造主である神【主】の前に「義」とされるためには、自分の身代わりに十字架に架けられたメシアであるイエス・キリスト(神の子羊)の下に、身を置く必要があるという事です。
この「義」は、無代価で、信仰により、【主】の恵みによって、与えられるのです。
自分をそこに置く、起き続ける生活こそ「道を平らに」する唯一の方法なのです。
しかし、人間は二心ですから、良心に留まらず、フワフワし続けます。
でも、「羊」の下が、自分自身の安心ゾーンであることを理解し、そこに立ち返ることを【主】は喜んでくださるのです。
それは、全人類のために用意されているのですからね。
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