デキルを楽しむマインド
新聞紙をビリビリ破いたり、粘土をコネコネしたりしていると、マインドが落ち着くようです。
最近は、新聞を購読しなくなったりして、新聞紙と縁がないというケースもありますね。
時代の移り変わりで、ペーパーレスという難題に取り組まされる人の悩みはつきません。
「デキル」というのは、周囲が「ほ~~」と感心するようなアート作品が作れるということだけではありません。
手書きの書では、その人の個性を表現できます。
お手本というものは存在しますが、あえて、自分が書くという主体性をフルに生かして、芸術にしてしまうという企てです。
筆は、あくまでも人の手中にあって、その人がどのように筆を運ぶかで、その足跡が決まります。
その筆運びには、その人の喜怒哀楽や迷い事なども反映されてしまうのです。
ですから、あえて、定点観測で、同じ字を書くとすると、並べてみると、同じ文字はないのではないでしょうか?
それは、その時のマインドが違うのでしょうからね。
水墨画に取り組むという人が、私の周囲にいますが、その人たちがいうのは、「最初の頃の作品が良く出来ている」という言葉です。
それは、不思議だなあと感じて聞いています。
作品を作り上げて行く過程で、道具も技術も向上しているはずだと想像するからです。
でも、その様な実感をもっていらっしゃるようです。
とにかく、自分で取り組んだ作品です。
その人にとっては、「デキル」ことを駆使して、「デキタ」ものです。
その過程込みで、深い思いを持ちながら、エンジョイする事こそ貴重だと考えています。
最初の話に戻ると、幼子が新聞紙を破るのも、方向性は破壊ですが、「デキタ」と評価しても良いと考えています。
砂場遊びなども、自分のイメージで造形することと、それを壊すことのくり返しです。
その刹那刹那を積み上げていくのが、経験値を育むことなのでしょうね。
何かを「デキル」と考えるだけで、楽しみが増えそうです。
裏紙に殴り書きでもしてみると、気が付けば作家になっている可能性もありますね。
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