気がかりなこと いのち
人間には、寿命があります。
年を重ねると、それを当たり前のこととして、頭ではわかっています。
しかし、近親者の場合は、いまわの際に、延命措置を希望するケースが多いようです。
植物状態でも、生きていて欲しいと願うのですね。
生きていて欲しいのですから、その気持ちはわかります。
人の寿命が尽きたと判断するのが、脳死なのか、心停止なのかは判断しにくいテーマですね。
「肉体的生命」がすべてだと考えると生きていて欲しいなら、なんとしてでも生命の維持をする必要があるわけですね。
このブログで紹介している「霊的生命」をベースに考えると、全く違う考え方ができるのですね。
つまり、「肉体的生命をあきらめる」か「肉体的生命をあきらめない」の選択肢から、「霊的生命に共存する」というのが加わるのですね。
肉体的生命にピリオドを打つ人が、霊的生命を持っているなら、共に、霊的生命で共存することができるのです。
この霊的生命は、永遠の生命であり、永遠の幸福への唯一のアクセスキーなのです。
これを確立するために、イエス・キリストがB.C.とA.D.狭間に降誕し、十字架に架かる必要があったのですね。
降誕をお祝いするのがクリスマス、復活をお祝いするのがイースター、そして、助け主聖霊の降臨を記念するのがペンテコステというわけなのです。
掛け金は、イエス・キリストの完璧な犠牲で完済された、永遠の生命保険なのですね。
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