死の恐れは、まるでタマネギのように
『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(ヘブル2:14-15)』
前項の「人は全員同じDNAから」に記した「罪」が子子孫孫に引き継がれる状態が、今なお続く「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれ」ることになっているのですね。
そこで、創世記3:15で約束されたことが、「つながれていた人々を解放するため」に、すでに行われたのです。
それは、今から約2000年前でした。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫から、マリアが選ばれ、メシアであるイエスが肉体で誕生しました。
そして、十字架で、唯一の過越の生け贄の本体として、全人類の罪科を贖った(PAID…支払を完了した)のです。
それを自分のためであったと受け入れる人を信仰者とし、「罪」がずっと覆われ続けるのです。
肉体に生きる人間は、善人だと評される人であっても、「無罪」では無いのですね。
この地上の裁判では、「有罪」か「無罪」かは争われるのですが、「無実」かどうかは取り扱わないですね。
結局、「疑わしきは、被告人の利益に」というところで、「無罪」とされたり、容疑事実が薄められたりするのです。
被害者にとっては収まりがつかない結果が多いです。
信仰者は、「無実」ではない人でも、神の前には「無罪」として取り扱われますからね。
信仰者の肉体的生命のせかいのおわりは、「死の恐怖」ではなく「永遠の幸福」への扉なのですね。
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