愛の本質は包むこと 倉田百三

『愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢るるものの包む感情である。人は愛せられることを求めずして愛すべきである。 倉田百三』

「倉田 百三(くらた ひゃくぞう〈または、くらた ももぞう〉、1891年〈明治24年〉2月23日 – 1943年〈昭和18年〉2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/倉田百三 参照 2021年10月14日)

このフレーズを記した倉田百三は、恋愛をはじめ、人生の中で「愛」について深く思索していたようなイメージを抱いています。

ここ数年、「不登校が問題」などと取り沙汰されますが、いつも時代にもあったのではないかと感じます。

それが、大々的に周囲に知らされるか否かの話で、もう一つ、時代背景に起因するメディアの影響力の差もあるのだと思います。

義務教育も大切な一つの取り組みですが、その時の自分が興味を持ったものを探求できる自由と環境があるというのも、ある人にとっては必要なのでしょうね。

「愛」を持って、養育者が寄り添い、本人の興味と実現できる教育を調整してくれることが、どれ程の幸せなのかという要素もありますね。

周囲の大人が、その子の才能を感じながら、可能性を広げていくというのも、一つの特技として位置づけるのも、奥行きの差はあるにせよ、「愛」の現れなのでしょうね。

冒頭のフレーズでは、自分の欠けを補うような求める「愛」より、むしろ、「自らが愛する」というものとキリストにある愛を描いているようです。

人間にとって、愛情は欲しいものですが、「愛」は互いに与えあうモノと理解した方がウマくいくのではないでしょうか?

溢れるは、器が満たされて、オーバーフローする豊かさを感じます。

「愛」を連呼していたとしても、ギスギスしていれば、その実体が伝わることになりますね。

包むという表現は、欠けを補うというよりも、大きくて抱擁されているイメージを感じます。

また、「愛」に包まれ守られている、とも受け取れるので、安心感も伴いますね。

相思相愛が理想ですが、世の中、そうそうウマくいかないことが多いです。

それなら、せめて片想いでも、相手の幸せを思う「愛」をお互いの迷惑にならない程度に秘かに持つという生き方もありますね。

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Posted by dblacks