人間にはできないコト「罪のきよめ」 箴言20:9
『だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。(箴言20:9新改訳2017)』
希望と絶望の境目が、ここにあります。
「罪」と聞くと、多くの人間はドキッとします。
ほとんど正しく生きていると自認している人は、怪訝な顔をして困惑します。
人間には、為す術がないのですから当然なのかも知れません。
残念ながら、エデンの園で、アダムとエバが「罪」を犯して、それを現代の人間も引き継いでいます。
『もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(1ヨハネ1:8-10新改訳2017)』
しかし、それを救済する道を【主】は備えて下さいました。
人間の希望は、それを感謝して受け取ることができるのです。
悲惨なのは、「罪」ばかりを見るあまり、失望し絶望に至ることです。
気が弱いのに、悪党ぶって、悪事の真似事をしていても、状況は改善しません。
また、修行をすればなんとでもなると言っても、【主】の基準に届かないことは明白です。
思い切って、希望に目を向けて、【主】にギブアップすると、余計なチカラを必要とせずに自然体でいられるようになります。
昔の話をすれば、アブラハムと同じ年代に、ヨブという族長がいました。
ヨブ記の主人公です。
この人は、【主】がサタンに示すほどの信仰者でした。
その時代の信仰は、【主】に直接、いけにえの動物を献げる方法でした。
家族のために、何か間違いをして「罪」を犯したかも知れないと考えて、いけにえの動物を献げていたほどでした。
その時代に合わせて示された【主】の方法で、「罪」の解決をしていく必要があるのですね。
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