過越の祭は、ユダヤ人のためだけではない 出エジプト12:12-14

『12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。14 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。(出エジプト12:12-14新改訳2017)』

【主】の選びの民イスラエル(ユダヤ人)を出エジプトさせるための最重要局面なのが、この「過越の祭り」の記事です。

もちろん信仰が試されました。犠牲の動物を殺して、その血を入口の柱と鴨居につけるように示されました。それを信仰により実行したので、イスラエル(ユダヤ人)の民は、長子を失わずにすみ、出エジプトができるようになったのです。これは、やがて起きるメシアであるイエス・キリストの十字架による贖いの預表です。それは、鴨居につけた血は引力で地に滴り落ちます。これは、十字架のタテ木を表しています。柱につけた血を結べば、十字架のヨコ木を表しています。

その夜、エジプト全土で、どれ程の第一子がいのちをとられたことでしょう。でも、それはファラオ(パロ)の奢りを砕き、選びの民イスラエルを出エジプトさせるために、【主】が下した裁きでした。

出エジプトから約3500年を経た今でも、イスラエルの大使は次のようにスピーチをするようです。

「過越の祭りは、イスラエルの民が奴隷状態から解放されたことを記念する祭りであるが、それは、ユダヤ人の祭りとしてではなく、全人類共通の遺産として祝うべきものである」日本人に贈る聖書物語 契約の民の巻p9

このスピーチの真意は、私には計りかねます。しかし、新約時代の信仰者にとっては、実に見事な表現だと感じ入るばかりです。

私は、今の時代から、出エジプトを見る立場ですから、出エジプトと十字架の歴史的経緯や見事なまでの関係性を知れば知るほど、「過越の祭りは全人類共通の遺産」という言葉に【主】の愛を深く感じて味わえるのです。

くり返しになりますが、過越の祭りは預表(影)であり、メシアであるイエス・キリストが十字架に架かった事こそが、聖書の核心であり、本体なのですね。

そもそも、聖書の核心は人類救済です。その中で選びの民イスラエルの位置づけは、【主】の器の民としての役割だったのです。

ですから、全人類の救済は、すでに決まっていたのですね。

信仰者は、やがて天にて【主】の御前に立ちますが、その時に、イエス・キリストの血によって、「無罪」とされて、過ぎ越されるのです。

新約聖書に、「キリストを着る」「義の衣」などの表現が出てくるのは、信仰者が「無実」でなくても、信仰によって「無罪」と認定される事の預表なのですね。

人間は、肉体に生きている間は「罪」とは無縁では居られません。しかし、信仰者は肉体から離れる時に、その「罪」からも解放されるのです。

【主】に信仰が「義」とされる事は、実に有難い事なのですね。

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Posted by dblacks