適度な助け合いは、継続的な努力が必要
お隣に味噌を借りに、または、塩を借りに、なんて時代がありましたね。
そのような付き合い方ができれば、理想的なのかも知れません。
でも、核家族化が進み、プライベートの壁も高くなってきていますから、お互いの生活環境に配慮する必要が出てきていると感じる時代です。
それは、他人の目に触れない部分が増えることでもあり、プライベートが守られることと、もう一つは、閉鎖的なスペースができてしまう事への懸念もあると感じます。
最近、ゴミ屋敷が話題になります。
潜在件数はかなりあるのでは?と推測しています。
また、予備軍も、それなりにいると思います。
それは、最初から、そうだった訳ではないようです。
何かのきっかけで、心が重たく感じて、ゴミ処理を後回しにした結果、ゴミ屋敷化したという経過のようです。
心が重たくなる要因は、家族が亡くなった喪失感や自分自身の許容範囲以上の負荷がかかる事など考えられます。
でも、その様な経験は、多くの人がしているという指摘もあります。
その通りです。そのような状況下でも、最低限の生活を維持する人は圧倒的に多いはずです。
その差は何なのか?
それは、周りの目というのが、一つある要因だと私は考えています。
同居人がいれば、それを阻止できたり、小言が歯止めになったりという要素ですね。
当事者は、片付けようという気が全くないような事もないようです。
掃除用の洗剤やゴミ袋を大量に購入していたりするケースもあるです。
大切なのは、方法の習得と習慣化のようです。
あくまでも、本人が主体的に、自分の方法を確立しない限りは、立ち直れないようです。
解体する予定のゴミ屋敷がありました。解体してゴミも一緒に片付けてキレイになりました。
そして、立派な家を新築しました。
しばらくは、ある程度の景色を保っていましたが、認知状態が悪化すると、たちまち、そこには、いつか見た景色が再現されていました。
この事例を検証すると、その人の認知状態の変化が大きなカギのように感じるのです。
援助者の存在も大切なのですが、当事者の認知状態の維持と主体性が最重要なのだと感じた次第です。
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