助け出すために 箴言24:11
『24:11 死に渡されるために捕らえられた者を救い出し、殺されようとしてよろめき歩く者を助け出せ。箴言24:11新改訳2017』
人間は、死の病に取り憑かれています。究極的には「肉体的死」に向かって生きているのです。
しかし、自由に行動できる状態に見えるのに、蜘蛛の巣にひっかかるような状況の人もいます。
いつの時代にも、自由を奪われて、束縛されている人もいます。
この箴言は、その人を助け出すようにという示唆です。
さて、いくつかの課題があります。
自分の状態は、どうでしょうか?
自分自身が助かっている状態で解放されているかを確認する必要があります。
また、誰をどのように助けるのか? 明確にしておく必要もあります。
そして、助けて欲しいという意思表示が出されているのか? というポイントも大切です。
船が難破したときに、どうするのか? という哲学的な「カルネアデスの板」という問いがあります。
カルネアデスの板(カルネアデスのいた、Plank of Carneades)は、古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが出したといわれる思考実験の問題。カルネアデスの舟板(カルネアデスのふないた)ともいう。
概要
舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われることはなかった。
緊急避難の例として、現代でもしばしば引用される寓話である。現代の日本の法律では、刑法第37条の「緊急避難」に該当すれば、この男は罪に問われないが、その行為によって守られた法益と侵害された法益のバランスによっては、過剰避難と捉えられる場合もある。
人間的には、どちらか一方が助かるという究極状態が発生するときがあります。
有限な人間には、これがついて回ります。
どうすれば助かるのか? というシミュレーションも大切ですね。
経済的な手段や物理的な手段を用意できるのであれば、その方法も有効でしょうね。
でも、ケースによっては、人知では及ばない事もあります。
その場合には、創造主である神【主】のチカラに頼る必要がありますね。
それならば、誰かが肉体的生命を落とすことになっても、永遠の命により、永遠の死を免れることができるのです。
これこそ、まさに天の助けなのですね。
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