信仰と柔軟性
信仰は、堅くあるものというイメージがありますね。
でも、信仰は毎日毎日、瞬間瞬間で変化しているものだと考えています。
人間には、信念というものがあり、何を神とするかではなくても、なんとなくでも自分が信じられるものが信仰なのでしょうね。
あるいは、何も信じられないという不信も信仰なのだと理解しています。
無関心といっても、関心があるかないかですね。
同じように無思想といっても、無思想という思想なのかも知れませんね。無思想というキャンバスは、説得力のある思想に染まりやすいので注意は必要ですね。
筆者の場合は、「創造主である神=三位一体(父・子・聖霊)が、イエス・キリストを唯一のメシアとして十字架上で、全人類の罪科を贖ったこと」を信じています。
信じているつもりでいても、自分の思惑と違う現実に不信になる時も出てきますね。
信仰は一日一日、瞬間瞬間で変化する生きもののようですね。
神が近く感じられる瞬間があれば、確信の方向に信仰が深められることもありますよね。
信仰は、確信と不信の間をウロウロしますから、確信を得られた時には、柔軟に路線変更をすることも必要なのですね。
確信と柔軟性は相反するようですが、大切な要素だと実感しております。
『けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。Ⅱテモ3:14-17【新改訳2017】』
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません