祈りを願いから救い出す

『祈りと願い
ああしたい、こうなりたいと、いろいろ考えていますが、それを願いにするのが祈りなのでしょうか。そういう面も祈りにはあるでしょう。しかし、もしそれだけなら祈りとは何と汚れたものでしょう。祈りとは、むしろそれだけのものになり下がってしまうことをよしとしない心の抵抗であり、人としての本来を求める憧憬であり、永遠なるものに誘われてゆく魂の高揚であった筈です。人が「願い」といわずに、「祈り」ということばを使った時、そこにはそういう倫理性があった筈です。「祈り」を「願い」から救い出さねばなりません。(神の風景200p…藤木三郎 著)』

信仰の動機の多くは、御利益信仰かも知れません。

その願望を携えて、求道をするのですね。

それに、応える教職者達は、「願いは天に通じる」とか「修行をすれば叶う」などとアプローチをするケースもあります。

なぜなら、「御心次第」という真理を説くと、そこで、関係が途絶えてしまうことを懸念してのこともあるのかも知れませんね。

癒やしの集会という中に、ゲストスピーカーが祈ると、集団催眠状態になり、得がたい体験ができるというモノがあります。

過去の集会で、「アリーナ席の人は全員倒れた」という目撃情報もありました。

参加した人が、時間とお金を使い、得がたい体験をして、良かったという実感ができたのなら、それはそれで良いのです。

しかし、主催者側のそこから、何かを取り込もうという誘導に被害が出ないことを願います。

藤木三郎師の『「祈り」を「願い」から救い出さねばなりません。』は、筆者も同感です。

自分の願望を持ち、目標に向かって祈り、自分なりに努力をしていくが、それが成るかどうかは、神の御心の時という原則は、聖職者なら心得ている筈なのですが、そうではない現実があまりにも多く、それに、苦しんでいる人がいるのが現状なのです。

神の平安と祝福が豊かにありますように。